プロローグ

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 羽田器子がまだ小さかった頃、月に一度は母に連れられて銀座へ出掛けていた。 華やかなデパートを巡り、歩き疲れると、いつも同じ喫茶店に入ってお昼を食べた。  そこは、子どもだった器子にはちょっぴり背伸びが必要な大人の雰囲気の空間だった。  間接照明に照らされた薄暗い店内。赤紫色のビロードのソファ。木目の鮮やかなローテーブル。床はふかふかの絨毯。  壁には、音符が踊るモダンアートの絵が飾られていた。  大人の雰囲気に気後れしても、若くて綺麗な母が一緒にいるから大丈夫だと、自分に言い聞かせていた。 『何、食べたい?』 『ナポリタン!』 『飲み物は?』 『オレンジジュース!』  ここのナポリタンが大好きで、いつも、これとオレンジジュースを注文した。 緊張しながら足を揃えて座って待っていると、ナポリタンがこんもり盛られた銀色の皿が運ばれてくる。  待ちかねた器子は、テーブルに置かれた途端にフォークを握りしめ、夢中になって食べた。  短冊切りの厚切りベーコンは、噛(か)むと甘い脂が口の中一杯にジュワーと広がる。  くし形の玉ねぎは、美しい飴色。噛み締めると甘い汁がほとばしる。  青々とした肉厚なピーマンは、大き目の正方形に切られている。これも噛み締めると汁があふれ出すが、器子の嫌いな苦みがない。  全てが個性を出しながらも、お互いを生かす最高のハーモニーを奏でる。  銀色の皿にフォークが当たると、カチャ、と金属音が鳴る。 その音も、ここでは楽しいBGM。  口を動かしながら、目の前で食べる自分を見ている母に言った。 『お母さん、美味しいね』  そう言うと、母は決まって笑顔になった。  あっという間に平らげると、真っ赤なチェリーの浮かぶオレンジジュースを、ストローで飲んだ。  それも、とても大好きな味だった。  こうした母との思い出は、大人になった今でも、器子の心の中にぼんやりと暖かい灯を灯(とも)す。  母が作る料理も美味しかったが、ここのナポリタンは特別な思い出の味となっている。  そうなったのは、味の問題じゃなく、どこで食べたかによるんだと、大人になって気が付いた。  自分も誰かの心に残るお店を作りたいと思った器子は、大人になって、【飲食店舗デザイナー】になった。
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