プロローグ

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夏も終わりが近い。背もたれのない小さな椅子に座って、呑気にもそう思った。小窓から差し込む西日が薄暗い部屋をオレンジ色に染める。かの有名な清少納言によれば夏は夜が醍醐味らしいが、俺だったらこの黄昏時を選び、後世に書き残しただろう。日中の蒸し暑さから解放され、時折吹く心地いい風が優しく包み込んでくれる。それに加え、自分の部屋から見る景色も、寂れた商店街も、混み合う駅も、昔通っていた小学校も、この時ばかりは鮮やかに染め上げられ、世の終末にも似た見事な景色に幾度となく感動させられる。春も秋も冬も、日が昇りそして沈むことは今までもこれからも変わることはない、しかし夏のこの瞬間だけは毎年特別に感じるのだ。 とはいえ、他人の価値観に四の五の言うつもりは毛頭ない。ただもし清少納言とこのことを話し合う機会があるならば、スカイツリーの展望台で日の入りを見送った後、お茶でも飲みながら感想を伺いたいものだ。蛍もなかなか見ることができなくなった現代でも夜の方が趣深いと思うのか、見物である。まあ正直な所、エアコンさえあれば朝でも夜でも一向に構わないのだが。 その人類の叡智の結晶であるエアコンが遺憾なく発揮されているこの部屋は快適そのものだ。しかしどうしてなぜか、他人の外見に四の五の言うつもりは毛頭ないが、頭毛の薄い白衣を着た初老の男性が机に広げられたカルテと睨み合い、広い額に汗を浮かべているのには少々不安を駆り立てられる。おかげでこの一室を支配する重苦しい空気に俺の後ろに立つ両親も緊張気味で、普段鬱陶しいだけの蝉の声にすら助けを求めたくなる。さりとて、快適さの代償としてこの部屋は閉め切られてしまっているためその援軍は望めそうにない。千年ほど昔の歌人にざまあみろと、嘲笑われている気分だ。 「谷上進(タニガミ シン)君」 唐突に名前を呼ばれた。
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