28人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
彼女はグラスを取った僕の方を見て笑った。
その笑顔が嬉しそうに見えてしまった。
僕がグラスを持ったことを喜んでくれているかのように感じてしまった。
僕はグラスを持っているけれど、そのグラスを見てはいない。彼女の視線をほどくことができない。
僕の目を見つめたまま、彼女は瓶もグラスも見ずに、僕のグラスにワインを注いだ。
視界の端に赤い液体が動く。彼女はそのまま僕から視線を動かさずに、自分の前に置かれたグラスにもワインを注いだ。
瓶をワインクーラーに戻すと、自分のグラスを持って少し首をかしげながら、僕のグラスに重ねた。チーンという音が響く。
さっきの人のピアノの音が微かに聞こえていることに、この音でやっと気づいた。
『ツーです。いらっしゃい。カンパイっ。』
歌声とも少し違う、微かにビブラートがかかった細い声が、耳に心地いい。
彼女はそう言う間も僕から目を離さない。
僕も反らすことができないまま、鼓動が早くなってきている。
彼女は少し潤んだ瞳で僕を見つめ続けながら、自分のグラスに少し唇を付けた。
ボーッとしてグラスを持ったままの僕を不思議そうに見つめたあと、チラッとだけ僕のグラスを見た。僕はワインのグラスを口に運んで、彼女を見つめたまま飲んだ。
ワインを飲むのは初めてだ。少し噎せた。
彼女は僕がワインを飲んで噎せたことにあわてもしない。
彼女からは嫌悪も侮蔑も嘲笑も瞠若も周章も、負の感情をまったく感じない。
彼女は微笑みを崩さない。天使が見守っているよう。
僕の隣にいる人が、おしぼりを渡してくれている。
でも僕も彼女もそちらは見なかった。僕は渡されたおしぼりで口を拭いたけれど、そうしながらもなお、彼女から目を離すことはできなかった。
彼女はそんな僕の様子をずっと微笑みながら見ている。
彼女が瞬きをする度に、何かを語りかけられているような気持ちになる。こっそりと僕だけに何かを。
最初のコメントを投稿しよう!