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それは泰山王の顔に似つかわしくない手つきで、まさしく母親の愛情に満ちた握り方だった。
「めいどあり!」
店主が注文の品を置いた。
それは何の変哲もないおにぎりだ。海苔も巻いていないし、タクアンさえついていない。
だが老人が一口おにぎりを頬ばると、途端に両目から大粒の涙をこぼした。
「嗚呼、この味だ。子どもの頃に食べた、夢にまで見たお袋の味だ。ほろほろと口のなかでほぐれ、米の旨味が頭までとろけさせる味。
……これで思い残すことは何もない」
米粒さえ残さずにおにぎりを食べ終わった老人が、純化した魂の輝きと共にはじけて消えた。
「……あの人は生まれ変わったのですか?」
僕は老人の消えたイスを見ながらつぶやいた。
「ああ。また新しい人生を送るために娑婆に戻ったよ」
「生前の記憶は残したのですか?」
「いいや」店主が口をへの字にする。「お袋の味という注文はアリキタリなんだよね日本人の男は。男の魂が食べるおにぎりだから、これが本当のソウルフード。なんちゃって」
笑えません。この店主、見かけによらず冗談好きなのかも。
「わ、私はっ」中年男が声をあげる。「会社一筋で懸命に働いてきたのに、過労が原因で駅の階段から転げ落ちて死にました」
「多いよね、中年にそういうの。魂になったら何も残らないのにね」
「極上の美味とか言われても何も思い浮かばない。いや、食べたいものはたくさんある。
茶碗蒸し、握り寿司、サーロインステーキ、まぐろの刺身、赤いウインナー、縁日の杏飴、どれも食べたいのだ。
でも、またつらい現世に戻りたくない。生まれ変わるなんてまっぴらゴメンだ!」
ひとしきり口走ると、中年男がフラフラと店を出て行ってしまった。
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