第十九の扉「雨の日の記憶」

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「アプリコット?」  月渚のママが私に尋ねた。私がお見舞いにもってきたケーキのことを言っているのだろう。それなら答えられる、そう思って私は言った。 「いいえ、枇杷(びわ)です。ああ、枇杷の季節なんだな、そう思って」  すると、月渚のママは、いれたばかりの紅茶と一緒に、枇杷のタルトをひとつ、お皿にのせてもってきてくれた。月渚のお見舞いにもってきたのにな、そう思ったけど、私は「ありがとうございます」とお礼の言葉を口にした。  何かリキュールのようなものがかけてあるのだろうか? タルト生地にのった枇杷の実は、つややかで、みずみずしく見えた。  私はお砂糖を入れずにティーカップを手にした。まだ熱くて、カップを近づけた口もとに湯気が漂うのが見える。それでも、ふうっふうっと息をかけて、紅茶を飲んだ。あたたかかった。と、そう感じた瞬間、涙があふれた。ぽろぽろっと、自分の頬を涙が伝った。その涙をぬぐうこともせずに、私は顔をあげた。そして、目があった月渚のママの顔を見て 「えへ」 と、ちいさな笑い声を出した。どうして笑うのか、何がおかしいのか、自分でもわからなかった。だけど、その理由を思いつくよりさきに、こんどは涙がこぼれる。こぼれてもこぼれても、とまることなく涙が流れる。そしたら、耳もとで、こんな声が聞こえてきた。 「ダメよ、赤ちゃんたち。ミルクをこぼしたら……」  ビッグママの声だった。
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