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「真実の姿が見える眼鏡を持ってきてほしい」
かぐやはそう言い放った。
……それを聞いて気持ちが萎えていくのを感じた。
君はその眼鏡で何を見るの?
自分の不可思議すぎる成長を人に見せたいの?
それとも僕が抱える影を見て、一笑に付したいの?
そしてその要求が出た上で気付いてしまったのだ。
かぐやは誰も選ばない。
昔々、求婚してくる男どもに無理難題を押し付けて、そのどれもを断ったという話があったじゃないか。
断るための理由を探し求めている彼女に猜疑心が増す。
無色透明の清らかな水に一滴の墨汁を垂らしたように、彼女の清廉さが雲ってゆく。
それでも引けなかった。
自ら外堀を固めたのだ。
授業の間でも、それとなく彼女にサインを出してきた。
今ここで辞退して、「真実の姿が見える眼鏡」を探すことから逃げたように思われるのは嫌だった。
……違う。
僅かな望みを繋ぎたかっただけかも知れない。
不完全な僕たちが一つになって完全となることを捨てきれなかったのだ。
明日から眼鏡を探すためにこの家を空ける。
そんなものが、どこにも売られていないことくらい、小学生だって知っている。
とりあえず僕に出来るのは、大学に戻って、時間学や宇宙学、空間学その他もろもろ、関係ありそうなことを研究している人を片っ端から当たることだ。
眼鏡を見つけることに関しては、砂粒ほどの期待も持てない。
住み慣れた部屋の私物を片付けた。
僕にはある程度、覚悟ができていたらしい。
自然と必要なものと不必要なものを分別し、段ボールに処分してもらうものを詰めていた。
残ったのは僅かな私物。
それすら一日でスーツケースに詰め込める量で、僕の3年間がちっぽけなものだったのだと痛感する。
ワイフさんの作った夕食を頂いた。
抜け駆けがないように、かぐやや老夫婦との接触は禁じられたから、僕だけの夕食だ。
広い居間に一人。
ワイフさんが装ってくれた味噌汁とお茶の湯気が揺れる以外、何の気配もない部屋。
不意に数年前の光景が過る。
笑いのあった部屋。
僕だけが遠慮して、ちょっと空気が変わってしまったけれど、温かかった我が家。
母さんの味噌汁、食いてえな。
この三年間ろくに連絡もしなかったくせに、懐かしくて寂しくて。
帰りたい。
本気でそう思った。
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