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「生徒が待っていますので僕はこれで」
会釈をしてジジイとグラサンの脇を行き過ぎようとしたときだ。
「浅川」
ジジイの低い声がした。
グラサンがスーツの内ポケットから小さな冊子を取り出す。
さっ、さっ、と完璧な時間差で冊子とボールペンがジジイの手に渡る。
ジジイはボールペンの先をベロリと舐めてから、一気にそれを走らせた。
ビッ
紙が引きちぎられて、僕の手に押し付けられる。
若干生温かい。
グラサンの体温だ。
気持ち悪さに眉を潜めながら紙面を見た。
これは……小切手。
額面金額250万。
驚いてジジイの顔を眺めた。
「夏休みに入れば、特別に短期だけの仕事も増やすのじゃろう?
その分を加味した一年分の給金じゃ。
娘の講習は毎日一時間。
稼ぎを減らすことなく自分の時間を作れるんじゃ、悪い話ではなかろう」
「……僕がこれを握ったまま逃亡するとは考えないんですか?」
「君は全うに稼いだ金が好きなだけで、老い先短いジジイから巻き上げた金を喜ぶわけではなかろう?」
くっ、この短い時間に色々見抜かれているようで嫌だ。
「それくらいの金ならワシが本気で竹と合間見えればすぐに取り戻せる」
居合い斬りの師匠かなんかなのか?
「ワシは人間国宝にもっとも近いと思われる人間、卓越した技術と冴え渡るセンスで世界を圧巻する竹細工師、茸鳥金治(たけとりきんじ)じゃからな」
すみません。
知りません。
人間国宝に近いと思われるって、なにそのうすらぼんやり感。
思案する。
このジジイの娘ということは、それなりの年齢だ。
むしろ母に近いと思っていいだろう。
母はまるで英語を覚えられないのだ、手こずるのは間違いない。
ただ……異文化に興味を持つ僕は、自国の文化には疎い面があった。
竹細工……伝統工芸がいかなるものか、この目で確かめる絶好のチャンスだと言える。
僕はスマホを取り出した。
今日担当する生徒の家に電話を掛け、都合がつかないという理由でキャンセルしていく。
電話を終え、ジジイをまっすぐ睨み据えた。
「僕にも都合があります。
まず生徒となる娘さんを紹介してください。
また引き受けるにしても、僕には抱えている生徒が何人もいます。
急には放り出せませんから、ひと月先からになりますが、そこはご理解いただけますか?」
ジジイはニヤリと笑って、着いてこい言うようにと顎をしゃくった。
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