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まだ握りしめていた革の装丁の本の表紙を、さらりと撫でると、少し心が落ち着いた。
店主が座っていた革の椅子に座り、大きな机に本を置いた。
片手を本の上に置き、頬杖をつきながら、見るともなしに、硝子戸越しに通りを眺めた。
混雑して、歩くのも難儀そうな時もあれば、ぱったりと人通りの絶えることもあった。
子供が駆け抜け、サラリーマンがせかせかと歩き、主婦が立ち話をする。
最初の衝撃が去り、落ち着きを取り戻して外を眺めていると、この店は存外居心地が良かった。
暗く、静かで、心がくつろいだ。
こんなに安らかな気持ちになったのは、いつ以来だろう。
ここ数か月、ずっと胸の内にあった、重く冷たい石が、消えてしまったようだった。
心の欲するまま、僕は思考を止めて、ただただ、硝子戸越しの風景を眺めていた。
アーケードの天窓から差し込む光が、時間とともに移り変わっていった。
けれど、店内はいつも白熱灯の作り出す濃い陰影に支配されていた。
店の外が、店内同様に闇に染まるころ、からり、と引き戸の開く音がした。
うとうととしていた僕は、一瞬自分がどこにいるのか分からず、入口に店主の姿を認めてからも、しばらく心臓がどくどくと不快な鼓動を刻んだ。
「申し訳なかったね」
表情のない顔に疲れをにじませて、店主は頭を下げながら入ってきた。
「帰ってきたんですね」
僕は、ほっと肩の力が抜けるのを感じながら言った。
「うん、他に帰る場所はなかったよ」
店主は、店内を映すばかりになったガラス戸を見た。
「それは、僕もですか?」
外は、見知らぬ街だ。
「そうかもしれないね」
店主は、淡々とそう言った。
「君は、本を売りに来たわけではなかった。ここに、本を売る目的以外で来る人は、たいてい帰る場所のない人なんだよ。」
「だから、ゆっくりしていくといい」
その言葉は、数時間をこの店で過ごした僕の心を震わし、しみた。
毎日が辛くて、生きがたくて仕方のなかった僕は、ここで久しぶりの休息を得た。
けれど。
「あなたは、どうしてここにいるのですか?」
この表情のない店主は、さきほど血相を変えて出て行ったのだ。
「私は、どうしてここにいるんだろうね」
店主は、闇に閉ざされた硝子戸を見た。
「ここは、私の街だよ。帰って来たのだと思ったんだ。けれど、私の時間だけ、ずれていた。私がここで暮らしていたのは、何十年も前のことだ。もう、帰れなかったよ」
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