壱 獣道

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 珠の如きにわか雨が樹々を激しく叩き、夕刻を告げる蜩(ひぐらし)を黙らせた。  豪と降り注ぐ雨に山渓の悉(ことごと)くが沸き立ち、盛夏の濃厚な緑と黒土の香りが鼻腔を容赦無く満たす。男は、視界を染める黄昏に導かれるまま、落ち葉に塗(まみ)れた草鞋で獣道を踏み進む。  先刻の河原の立ち合いで、左の耳朶を失った。その所為で、木の葉に弾ける雨滴の旋律が、有らぬ方向から頭蓋に響く。脇腹の長い刀傷も鼓動に呼応して鮮烈な痛みを訴えるが、それ以上に己が内から湧き上がる、得体の知れぬ衝動。  此処まで生き恥を晒しておきながら、今更、何に執着しようというのか。だが、己の唇が歓びに歪むのを感じる。  目印を残すのに、手頃な樹を探す。  脇差に手を伸ばそうとして、利き腕から雨混じりにどろりとした液体が滴るのに気付いた。立ち合いの際に、切っ先が掠めたか。  目をやると、二の腕に脂肪が白く覗いている。傷は、存外に深い。袖を裂いて気休めの止血帯とした。  呼気に合わせ、天から地へぴしりと腕を振り下ろす。足下の草むらに朱の飛沫が散った。
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