壱 獣道

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 雨に濡れた柄巻に手を添え、一呼吸で眼前の幹に刻む。女は覚えているだろうか、幼少期に山野を駆け巡った際に示し会わせた、この目印を。暫時、瞼(まぶた)を落とすと、耳元に木霊する童女の嬌声。焦がれる余りの幻聴か。  やがて、朱に濡れた痩躯を叱咤して山道を辿ると、参道の脇道に出た。打ち捨てられた社へと至る細道にはうっそうと雑草が繁っているが、よく見れば簡素な石段が敷かれていると判る。  耳を澄ませど、微かな夏虫の音以外はしんと静まっている。  下草が草鞋を柔らかく受け止める。ふと振り返って視線を麓へ走らせれば、街道に小さな宿場町が見えた。ここ数日来、逗留していた旅籠。  仲睦まじく宿を切り盛りする親子の姿が思い出され、期せず目を細める。かつて、自分もあの様な暮らしを夢想してしまったことがあった。細く息を吐いて、未練を断つ。
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