壱 獣道

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 慎ましい境内には人影もなく、唯一つ本殿が残るのみ。それも打ち捨てられて久しいのであろう。参道正面に位置する本殿の屋根は白緑(びゃくろく)に風化し、左側の四分の一が既に朽ち崩れている。  側面の木壁も腐り倒れているものの、正面両端で屋根を支える向拝柱(こうはいばしら)を始め、建物を支える躯体(くたい)は辛うじて生きているらしい。  参道を登ってくる女の視線を考え、本殿の正面、向拝の石段に座して待つことにした。腰の物を支えに躰を屈めると脇腹の刀傷が焼ける様に痛み、視野が赤黒く濁る。  気管を這い上がる小さな朱塊を石段に唾した。数瞬後、自分がいま神域に身を置いていることに思い当たり、本殿を微かに振り返って非礼を詫びる。  境内を満たす夕立に耳を浴すと、ざわついた心に静寂が満ちてくる。自然の騒めきの中で雨に冷えた石段に背を預け、両腕が垂れるに任せた。
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