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軽い人垣を掻き分けて、イリスの正面に菖蒲が辿り着いた。翡翠の瞳に菖蒲の赤い瞳が映り込む。
「菖蒲さん?」
名前を呼ばれて、感極まった衝動が菖蒲の身体を動かした。
「きゃっ」
がばり、と。衆人環視の中でイリスを抱き締める。突然の行動に周囲が俄かにどよめくが、菖蒲にとってそんな事は些細な問題だ。
――このイリスは菖蒲を覚えている。
聞いて欲しい言葉があった。もう届く事が無かった筈の願望があった。その行く宛がここにある。その衝動を抑えるブレーキは、残念ながら今の菖蒲には備わっていなかった。
「名前を呼んで欲しい」
驚きに固まっていたイリスだったが、菖蒲の要望にくすりと微笑む。
「はい、菖蒲さん」
優しげな表情で両腕を菖蒲の背中に回しながらイリスが応じた。菖蒲は「そうじゃない」と否定をする。
「敬称はいらないんだ。呼び捨てで、呼んで欲しい」
――お願い、ちゃんと考えておいて下さいね?
いつかの約束に菖蒲が出した答えが"それ"だった。
イリスは菖蒲の真意を悟る事は出来なかったが、理由を求めるのが野暮である事は察するに余りある。少しの躊躇のあと、イリスが口を動かした。
「菖蒲」
「うん……」
菖蒲は噛み締めるように頷いて、一拍を置いて蚊の鳴くような声で言う。
「イリス」
「ふふ、そういう意図があったのですね」
「あ、ごめん。説明を忘れてた……のえるが、羨ましかったんだ」
恵流はイリスを最初から呼び捨てにしていた。それが、菖蒲の心を絶妙に燻らせていた。嫉妬とも独占欲とも少し違う、漠然とした対抗意識が働いたのだ。
「嫌じゃなければ、これからも名前を呼んでもいいかな」
「はい、喜んで」
撫でおろした胸に多幸感が満ちた。そして、思い出したように菖蒲が告げる。
「また会えて、嬉しいよ」
「わたくしもです」
――直視も憚られるこの睦まじい会話は衆人環視の中で行われている。
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