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プロローグ「パンはパンでもパンはパン」
平野恵流≪ヒラノ エル≫が当惑する頭の中でいの一番に考えた事は『あれは誰だ?』ではなく『此処は何処だ?』と言う自問自答だった。
確かに今朝方に見た夢の中に意識の大半を忘れてきてしまったままだが、それでもこれだけは言える。
ここは。
この場所は。
この世界は、恵流達の現実である筈だ。
「森泉さーん! 趣味ってあるー!?」
視線の先、教室の前面の教卓の前には、クラスメート達の注目の的となりながらも見る者の心を解すような柔和な微笑を浮かべる少女がいる。
「趣味、ですか。強いて挙げるのでしたら、人とお話をする事でしょうか」
何かが違う。容姿が段違いだ。おそらく性格も澄み切っている。一挙手一投足、何処を取っても洗練されている。すなわち常人ではない。彼女と向き合えば、相対する者は忽ち本能的に位の違いを意識する。
「機会がありましたら、今度はわたくしにも皆様の事を教えて下さいね」
しかし、胸の前で両手を合わせて顔を綻ばせる彼女に距離などは微塵も感じない。穏やかな川のせせらぎのような声が教室に浸透する。
質問攻めに曝されている少女――森泉≪モリイズミ≫イリスを胡乱とした眼差しで見つめながら、恵流は再び思う。
此処が現実であるならば、あれは何だ? と。
恵流は知っている。この教室にはあともう一人、彼女の存在を既知している者がいる。
共に激戦を戦い切った相方に恵流の関心が向く。その者は、先程までの恵流と同様に放心をしているようだった。
その気持ちは凄まじく共感できる。
有り得ないのだ。だって、彼女はこの世界の人間ではない。ともすれば、人間ですらなかった筈なのだ。
――恵流達とイリスが出会ったのは『設定世界』と呼ばれるゲームの中。
森泉イリスはその物語に登場するお姫様、イリス=エル=フラグナに特徴が酷似している。いや、同一人物なのだろうと言う確信すらあった。
陽光をはらんで輝く稲穂色。暗所でばかり会っていたから恵流には解らなかったが、彼女の魅力は光の下でより一層引き立つ。
「っ」
相方――鶴来菖蒲≪ツルギ アヤメ≫が唐突に席を立った。勢いがあった為に、新品同様の真っ白な椅子が音を立てて倒れる。
菖蒲の挙動は何事かと観衆の興味を集めて、好き放題に行き交っていた声がピタリと止まった。
我を取り戻しているのかいないのか、菖蒲は水を打ったような静寂を意にも介さずに教室の前方に踏み込んでいく。
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