第一章 ①

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「こんにちは。私、メリー保険の小笠原と申します。テレビとかでおなじみかと思いますが、資料のご請求とかされたことございませんか」 『あ、うち結構です――』  インターホン越しに奥様の声が無情に切れた。  暑い。地面が揺らめいて見えるようだ。  木々の緑の色が濃い。東京都心から外れた小平市は武蔵野の面影を強く残している。セミの鳴き声がアスファルトに染みいる午後の時間、小笠原真備は粛々と飛び込みをしていた。  左手には、ゼンリンの白地図からこの周辺部分のコピーに医療保険のパンフレットを挟んだものとスケジュール帳を持ち、右肩には鞄を提げている。パンフレットは一部だけ取り出して名刺と共に外側に持っているが、汗でゆがみかかっていた。  クールビズだからスーツは着ていないものの、スラックスが太ももに張り付く感触は、いつになっても慣れるものではない。 「暑いな――」  鞄からハンドタオルを取り出して、色白で端正な顔立ちの額をぬぐう。ハンドタオルはとっくの昔にびちゃびちゃだ。  地図のコピーにチェックを入れて、隣りの家のインターホンの前に立つ。  子供用の自転車と三輪車がある。お子さんがふたりくらいいるのだろうか。  カメラに向けて笑顔を作り、インターホンを鳴らす。 『はーい』 「こんにちは。私、メリー保険の小笠原と申します。テレビとかでおなじみかと思いますが、資料のご請求とかされたことございませんか」 『いえ、ないですけど』 「いまテレビでやっている最新の医療保険のパンフレット、名刺と共にお渡ししているのですが、ご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか」 『すみませーん、いま子供がお昼寝してるのでー』 「そうでしたか。ではまたよろしくお願いしまーす」  明るくにこやかに、インターホンに一礼して下がる真備。  そして同じ事の繰り返しだ――。  この話法は真備をメリー保険に誘ってくれた幼なじみで先輩の御子神ゆかり直伝の飛び込み営業トークで、ゆかりはこのトークによって年間MVPを獲得したのだが、なぜか真備が同じようになってもうまくいかない。 「私だって一日飛び込みして一つか二つアポが取れればいい方なのよ。それをもう一歩がんばって一日にもう一つアポを増やせばMVPよ」とゆかりは言うのだが、真備にとってはそもそも一日に一アポとることも難しい。
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