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「早織ーっ! どこだ!?返事をしろ!!」
薄暗いトンネルのような道。私は妻の名前を叫びながら歩いた。
すると、トンネルの先に立派な髭を蓄えた男が立っていた。
まるで彼自身が光を発しているかのように、ぼんやりと、彼の周りだけが明るい。
私は彼に尋ねた。
「早織を、私の妻を知りませんか? こちらに来たきり戻ってこないのです」
すると彼は、地を這うような低い声でこう言った。
「きみが彼女の旦那か。残念だが、君の奥さんはもはや『こちら側』の住人になってしまった。規則を破り、こちら側の食べ物を口にしてしまったのだ」
「そんな……」
やはり早織は、規則違反をおかしていたのだ。
「しかし、彼女はこちらの食べ物を一口しか口にしておらず、しかもすぐに吐き出してしまったのだ。なのでもしお前が約束を守れるというのならば、特別に妻を返してやっても良いぞ」
「本当ですか!? やります。どんな約束でも守ります!」
必死に頭を下げる私に、男は満足そうに頷いた。
「なに、簡単な約束だ。今からお主には妻の手を引き、このトンネルをまた戻ってもらう。その際に後ろを振り向かなければいいだけの話だ」
「なんだ、そんなことですか! それなら大丈夫ですよ!」
「そうか。では」
男がそう言うと、暗がりから妻が現れた。
暗いので姿ははっきりと見えないが、妻がいつも着ているオレンジのカーディガンの袖口と、そこから伸びる白い手首だけははっきりと見えた。
私は、その手首をしっかりと掴み、駆け出した。
後ろから、妻がついてくる足音が聞こえる。しかし、妻は一切言葉を口にしない。
その手首は異様に冷たい。まるで氷でも握っているかのようだ。
――いけないいけない。
私は思わず振り向きたくなる気持ちをぐっとこらえて走った。
後ろから、妻以外の何かが追ってくるような気配もするが、それも無視する。
私はただ一心不乱に走り、やがてトンネルの出口が見えてきた。
眩しい光に包まれる。やった! 成功だ! 無事、早織を連れ戻したぞ!!
しかしその瞬間、早織の足音が消えた。
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