6人が本棚に入れています
本棚に追加
(っ、チャンス!)
紅咲が一人でいるなんて珍しい。というか、初めて見た。
踵を返し、即座に階段を駆け下りたこのめは、もてる全力を尽くして美術棟へと急いだ。
(きっと今を逃したら、もう二度と――)
この時のこのめはとにかく目の前の機会を逃すもんかと必死で、別の可能性になど微塵も思考がめぐらなかった。
別件で離れていた定霜と、あの先で落ち合う約束をしているのかもしれない――という、何よりも現実的な可能性。
(――いたっ!)
美術棟と本校舎との間には、数種の花が咲く中庭がある。その小道の影に隠れるようにして、淡い桃色の後頭部が見えた。
このめは走りながらすうっと大きく息を吸い込み、
「――紅咲さんっ!」
ビクリ、と肩を跳ね上げた紅咲が振り返る。
驚愕に見開かれた桜色の瞳が、このめの姿を捉えて小さく揺れた。
「……あ」
「急にゴメン! 俺! 隣のクラスの如月このめ!」
(――まにあった)
その側まで駆け寄り立ち止まると、安堵と疲労が一気に襲ってきた。
このめは自身の両膝に手をつき、鼻と口で必死に酸素を取り込みながらも、紅咲をグッと見上げて、
「お芝居に! 興味ありませんかっ!?」
言った。とうとう言えた。
胸中に達成感が溢れ、頬が緩んだのは僅か数秒。
「アアッ!?」
後方から飛んできたドスの聞いた声に、このめは飛び上がりながら振り返った。
結び目を下げたネクタイに、開かれた襟元。ワイシャツの裾はベルトを隠し、袖はブレザーごと肘下まで捲りあげられている。
――定霜だ。
最初のコメントを投稿しよう!