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もう一曲歌ってきますと言って、彼女は席を立った。
私はしばらく、アサリの酒蒸しと一緒に彼女の言葉を咀嚼していたが、ふとその気になってマスターに声をかけた。
「ここには、穴あき人間のためになる道具が、他にもあるのかい」
マスターは無言で頷いた。
「実は最近、私も困っているんだ。この右手が痛くてたまらない。ペンなんて持てたものじゃないし、キーを打つにも、空想にふけることさえも一苦労だ」
このままでは、自分は作家をやめなくちゃならない。そう考え出すと、夜も眠れなかった。そして思い知った。私は何より書くことが好きなのだ。妄想に浸るのが好きだったのだ。これができなくなったら、私はどうして生きていられるだろう。
グラスを拭いていたマスターは、ちらと上目遣いに私の顔を見ると、何も言わず店の奥に引っ込んだ。そして、何やら変てこなものを手にして帰ってきた。
「なんだい、これは。これを手にはめるのかい」
それは、五本足の歪なクモのようだった。身体の部分はクッションになっていて、それを右手の穴に押し込むと驚くほど実によくなじんだ。風が通るたびに感じていた、針でつつくような痛みが消えていく。クモの足を五本の指にそれぞれ取り付けると、指は今までの麻痺が嘘のようにするすると動き始めた。
「これは、すごい」
興奮して言うと、マスターが低い声で呟いた。
「ただ、それを使うと穴の広がりが早くなるようです。彼女の小夜啼鳥も同じです。できれば、お使いにならない方が」
穴に食われるのが早くなる。その言葉に私はどきりとしたが、手に入れた快適さは手放しがたかった。その心地の良さといったら、穴を忘れそうなほどなのだ。頬が引きつれるのを感じながら、私はわざとぞんざいに言い捨てた。
「いいさ。思うように書ける時間が増えるなら」
ステージに目をやる。彼女もきっと、同じ考えなのだろう。
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