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雨で冷えた手をおしぼりで温めていると、ぽっ、と店の奥にオレンジ色の照明が灯った。見れば小さなステージがあって、おもちゃのようなマイクが据え付けられている。
「お、始まったな」
常連客らしい男が嬉しそうに呟いた。
「よッ、アコちゃん。待ちくたびれたよ」
声に導かれるようにして、部屋の奥から華奢な女性が現れた。ワイン色のマーメイドドレスに、銀色のカチューシャ。青竹色のスカーフが目を惹く。肩ほどでふわふわにカールさせた黒髪と烏羽玉色の瞳。色の薄い小さな唇を震わせ、うつむき加減にたたずむその姿は、まばたきをすれば消えてしまいそうなほどに儚かった。
――ああ、『彼女』だ。やはり、見間違いではなかった。
「……あ」
マイクに手をかけようとしたところで、彼女がこちらに気がついた。マイクを握ったまま、叱られる前の子どものような怯えた表情で凍りつく。異変を察知して、先ほど歓声を上げた男がこちらを振り向き、あからさまに嫌な顔をした。
「なんだ、常連だけじゃなかったのか」
「…………」
彼女はしばらく、私の顔に書かれた見えない文字を読もうとでもするかのように眉をしかめていたが、やがて意を決した様子でこちらへと歩いてきた。
「アコちゃん、無理することねえよ」
男が心配そうに声をかける。彼女は私の目の前に立つと、何かを確かめるように、私の手に触れた。――包帯でぐるぐる巻きにした、私の右手に。
「あー、心配してくれたのかな。大丈夫だ。大したけがじゃない」
私は精一杯の平静を装って彼女に微笑みかけた。が、内心は動揺で汗だくだった。外側の皮一枚だけ残し、中でぶるぶると震えていた。
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