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不意にあっと目を見開いて、彼女が私の目を見た。わかった。でも、本当に? 彼女の瞳にはそう書いてあった。
「アコちゃん。今日はやめておこう。な?」
男がなだめるように言う。しかし、女性はふるふると首を横に振った。私の手を離し、マイクの方へと歩いていく。ステージに上がると、両の手で抱きしめるようにマイクを包んだ。
「……皆様。体の芯を冷やすような無情な雨が降りますこの夜に、このお店で皆様にお会いできたこと、とても嬉しく思います」
マイクに口づけしそうなほどに近づき、まるで恋人の耳元でささやくような、消えそうにかぼそい声で呟く。美しい声だった。繊細な彫刻が施された硝子細工だ。触れたらきっと壊れてしまうだろう。
女性は会場をぐるりと見回すと、ぎこちなく微笑んで、首元のスカーフに手をやった。するり、と結び目をほどく。
「それでは、今晩も少しだけ、私との時間にお付き合いください。今夜がお初のお客様も、どうぞよろしく」
視線が私の方に向く。にこり、微笑まれた気がした。
「わたくし、小鳥アコと申します。さて、待ちかねてくださっている方々もいらっしゃいますので、これ以上の自己紹介は、歌で替えさせてください。では一曲目」
はらり。彼女から離れたスカーフが床に落ちる。あらわになった彼女の首を見て、私は思わず息を呑んだ。
彼女の喉元には、卵ほどの大きさの穴があいていた。
「“泣かないで小夜啼鳥”」
しっとりとしたジャズピアノのメロディが店を包みこむ。彼女の穴を『穴があきそうなほど』見つめた後で、私はぽとり、自分の手に視線を落とした。
どうやら『これ』は、ここでは必要ないらしい。
がばり。覚悟を決めて、一気に包帯をむしり取った。うつむいた頭の先に、彼女の視線を感じる。あらわになった右手のひらを、私は彼女に見えるように大きく上に掲げた。彼女が目を大きく見開いて、そして何度も頷くのが見えた。
私の手のひらには、こぶし大の穴があいていた。
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