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「マスターのご厚意で、このお店だけは、穴を隠さないで歌わせてもらっているんです」
ステージで三曲を熱唱した後、彼女――小鳥アコは、私の隣の席に座ってそう言った。透き通った琥珀色のシャンパンを左手でくるくるともてあそぶ。
「テレビとか、公共のお仕事ではさすがに、大っぴらにするわけにいかなくて。穴のあいている場所が場所なので」
スカーフをまき直した喉元に、布の上からそっ、と触れる。
彼女は歌手だ。さほど有名ではないが、テレビや雑誌でも時折、姿を見かけることがある。そんな彼女が喉に穴をあけたと知ったら、なるほどちょっとした大騒ぎになるだろう。
「けれど、それってなんだか窮屈で。隠しごとをしているみたいで、気が引けて。ここは、私の喉に穴があっても気にしないってお客様ばかりで、開放された気分で歌わせてもらっているんです」
この店は不思議と、穴のあいている人間、穴あきに理解がある人間しか寄りつかないのだという。最初にこの店を見た時の印象を思い出して、そうかと私はひとりごちた。深窓のお嬢様は、穴あき人間を待っておられたのだ。
「今日、街であなたの姿を見かけてね。それで、ちょっと気になって後を追いかけてみたら、このお店にたどり着いたんです」
そう告白すると、彼女は目を丸くした。
私が人混みの中からアコを見つけたのは、全くの偶然だった。霧雨の中、移ろう人々の顔の中に、不安げにうつむいた彼女の横顔を見たのだ。目に入ったのは一瞬で、その他大勢と同じように彼女の顔もすぐ過ぎ去ってしまったはずなのに、私ときたら彼女の顔を目にした途端、びっと身体に電気が走ったようになって、気がついたら彼女の後を追って歩き始めていた。彼女が歌手の小鳥アコだと気づいたのは、その一瞬後だ。芸能人に疎い私が彼女をそれと気づけたのは、彼女が私の愛用しているシャンプーのコマーシャルに出ていたからで、私の唯一の『推し』歌手だったからだった。
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