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メモに目を落としたまま彼女が言った。
私は、自分で思っている以上に動揺したらしかった。私の顔を見て、彼女はとてもすまなさそうな顔になった。
「……ごめんなさい。不快にさせたいわけじゃなかったんです」
「いえ、大丈夫です。気にしないで。あなたの言う通りなんです。全く、そう、あなたの言う通りだ。困っているんですよ、こいつには」
「わかります」
するりと自分の首元をなでて、彼女は大きく頷いた。
「私も歌手のくせに、こんな場所に穴を作ってしまって。機能上はさほど問題はないらしいんですけれど、でも」
一瞬、迷うように顔をしかめた後で、彼女はおずおずと続けた。
「私、何故かこの穴が大きくなるにつれて、声が出しづらくなってきているんです。最近はもう、大声を出すのがひどく苦痛で」
「ああ、やはり」
「精神的なものじゃないかと、医者は言います。それがまた悔しくて。気のせいだって言いたいのかって。でも、そうですよね実際、気にせずに声を出せる人の方が少ないと思いませんか」
彼女の言葉に、私はただ何度も頷くことしかできなかった。
私自身も同じ状況に立たされていた。右手は機能上、穴がない時と比べて何の遜色もなかった。ないはずだった。だが段々、ペンを持つのがつらくなってきた。キーボードを打つにも、右手がしびれたようになって思うようにならない。執筆にかかる時間がぐっと増えた。また気のせいか、最近は話の筋を考えている時さえ、右手が妙にうずく気がして集中できない。私の作家生命に関わるかもしれないと、焦燥感に駆られていたところだった。
「嬉しい。私達、なんだか似ていますね」
彼女にそう微笑みかけられて、私の心はぶわっと浮き上がった。椅子に尻を預けて、無意味に足をぶらぶらとさせてみる。文字通り、地に足つかない感覚が妙に心地よかった。
「また、遊びに来てください。毎週ここで歌っていますから」
黄金色に泡立つ酒を一気に干すと、彼女はすがるように私の肩に手をかけ、そうささやいた。
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