ホ・ラ

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 私は『バー・空』に足繁く通うようになった。専ら彼女に会うため、そして彼女の歌を聴くために。  とりとめのない話をたくさんした。テレビで見るよりずっと、彼女ははにかみ屋で、子どもっぽくて、冗談が好きだった。手で顔をすっぽり覆い、くつくつと身体を小刻みに震わせて笑う姿は本当に愛らしくて、指の間からちらと覗くピンク色に蒸気した頬がもっと見たいと、馬鹿馬鹿しい話を次から次へと聞かせた。  楽しい逢瀬とは裏腹に、彼女の声は日増しに『弱って』いった。努めてはっきり話そうとしているらしいのに、段々と声に抑揚がなくなり発音が不明瞭になっていくのを、私は悲しみと恐怖をひた隠しにして聞いていた。彼女と別れて店を出た後、日を追うごとに面積が小さくなっていく私の手のひらを見て、私と彼女は同じようにすり減っていくのだ、彼女も惜しいと感じてくれているだろうかなんて考え込んだりもした。  他の人は芸能人と出会ったら、その交流関係や仕事について聞いてみたりするのだろうか。残念ながら、彼女以外の芸能人にはさして興味のない私は、芸能活動については全く話題に出さなかった。彼女もあまり気が進まなかったらしい。彼女が住む華やかな世界について、ついに話そうとはしなかった。  私の執筆業についても、彼女は決して触れてこなかった。きっと、私の出方をうかがっていたのだろうと思う。私が喜々として創作の愚痴でも言えば、彼女の方からも話を振ってきたかもしれない。が、私もなるべく仕事のことは話題にしたくなかったので、彼女の心遣いは大変ありがたかった。  ただ一度だけ、私が執筆した文庫を持って店に来てくれたことがあって、小さな本を膝の上に乗せ、その上にそっと手を置いて、この話は素晴らしかったと言ってくれた。胸がざわついて眠れなかったと呟いた時の彼女の表情を、私は一生忘れることはできないだろう。私の方を見ながら、でも心はどこか彼方を見ているような面持ちで、彼女は喉まで出かかった言葉を舌先で転がし、吟味した後でたった一言だけ 「泣きました」  そう言って照れくさそうに目を細めた。
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