muzina

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 ある晩のこと、終電を逃した私はほろ酔い気分でふらふらと道を歩いていた。紀の国坂に差し掛かり、たらたらと続く上り坂の中ほどまできたところで、街路樹の下でうずくまる女性の背中が見えた。  酔っ払いだろうかと思うものの、よく見れば肩を揺らし、泣いているようにも見える。  具合でも悪いのだろうか?まさか何か事件にでも巻き込まれたのか?  そう思った私は、その女性に声をかけた。 「もしもし、どうかしましたか?」  それに対して彼女は何も答えない。やはり泣いているようだが、うずくまったまま顔も上げない。  そこで私はその肩を軽く叩いた。 「あの、何かあったのなら、警察か、誰か人を呼びましょうか?」  しかし彼女は小さく首を振り、 「いえ、なんでもありません」と言いながらゆっくりとこちらに顔を振り向けた。  涙で化粧がどろどろになった女の目が私を見る。その途端、彼女は「ギャッ」と叫び声を上げて脱兎のごとく坂を駆け下りていった。  いったいなんなのだ。失礼な。何か釈然としないものを感じながら再び歩き始める。  すると、前方に赤い提灯の灯りが見えてきた。どうやらおでん屋の屋台のようだ。  気分直しにもう少し飲んでいこう。そう思い私はそこに立ち寄ることにした。  暖簾をくぐると、店主は向こう側を向いてなにやら作業をしていた。 「いらっしゃい」と威勢がいいものの、こちらを振り向きもしない。 「店、やってるの?」  私が問いかけると、相手の声は謝意を含んだものに変わる。 「もちろんです。でもちょっと待ってくださいね。どうも発電機の調子がおかしくって」 「ああ、そうなんだ」  とりあえず席に腰を下ろした。待っている間、暇つぶしになればと、たった今見た女性のことを店主に話して聞かせた。  すると彼は「へえ、そりゃ変な女だ」と言いながら、ゆっくりと振り返った。  団子鼻の上のどんぐり眼が私をじっと見つめる。 「ああ、お客さん、そりゃそうですよ」  店主はにんまり笑うと、屋台の下から何かを取り出し、こちらに向けた。  それは鏡だった。そこには私の顔が映っている……はずだった。  ところがそこには、目も鼻も口もない、卵のようなずんべらぼうの顔があった。 「そんな、どうして」  咄嗟に自分の顔をなでる。つるりとした不気味な感触が手に伝わった。  その途端、屋台の灯りがふっと消え、あたりは真っ暗になってしまった。
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