そうだ、銭湯に行こう!

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「銭湯に行きたいわ」  唐突に主張した早苗の言葉に、飲み仲間で同期の鈴宮一貴と、行きつけのバーのマスター、神野信司が同時に目を丸くした。  休日を明日に控えた花の金曜日。最近すっかり習慣となってしまった、週末に信司の店でくだを巻く、という憂さ晴らしが、今日に限って少し様子が変わったのは、来しなに何気なく本屋を覗いたせいだった。 「今からですか?」  怪訝な表情で、信司が問う。  時刻はすでに深夜に差し掛かっていた。しかも早苗は、大して強くもない酒を立て続けに体の中へ入れている。 「スーパー銭湯なら開いてるかもしれませんが……その状態で入るのはお勧めしませんよ」  酔いが回るのを懸念したのか、信司が眉間の皺を深く刻んで忠言した。 「ち、がーーーーう!! そうじゃないわよ! そうじゃなくてっ! 私が行きたいのは蒲田の銭湯よ!」  どん、とカウンターに文庫を立てる。  東京下町湯屋話。ポップなイラストに湯の文字が印象的なその本は、早苗が本屋で見つけた一冊だった。  本好きが高じて国語教師になった早苗は、道すがら本屋を見つけるとほぼ条件反射で店内に入り、中を一周する癖がある。例外無く、今日も仕事帰りに本屋に寄った。そこでこの本を手に取ったのだ。  小説は基本、ポップや帯のあおり文、タイトル、あらすじを眺めてから出だしに目を通して買うようにしている。そこまで慎重なのは自宅が本棚……というか本のタワーが乱立するジャングルと化しているからだが、そこは今重要な事ではない。  とにかく中身を数ページ立ち読みした早苗は、テンポよく物語の世界に引き込む件の文庫に魅了されて、目を離せないままレジに並び、目を離せないまま道を歩き、目を離せないまま信司の店のバーカウンターで今の今まで読書を続けた。 つまりたった今読了し、その第一声が「銭湯に行きたい」だったのだ。
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