イグニス(ためし読み版)

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イグニス(ためし読み版)

 街の灯もとうに消えた静寂の夜。至る所に本が積まれた簡素な一室で、黒髪の青年は英文字の並ぶ異国語の書物を読んでいた。  部屋では時折暖炉の火が爆ぜ、小さな丸机の上へ置かれた蝋燭の灯がゆらめく。その隣に置かれた懐中時計は硬質な音で時を刻み続けていた。ベッドの上には脱ぎ捨てられた黒い外套と鞄が無造作に置かれている。放置されたグラスに注がれた洋酒の氷が、気まぐれにカランとなった。  何に誘われたわけでもなく、青年は格子窓越しに外へ視線をやった。何の変哲もない石畳の、同じ顔をした建物が立ち並ぶ路を見た。冷えるはずだ、と誰に聞かせるでもなく呟く。  外は雪が降っていた。彼の故郷では、霜月の暮れにはすでに雪が積もりだす。いつから降り出していたのか青年には分からなかったが、道にはすでに雪が積もり始めていた。  再び手元の書物へ視線を移そうとしたとき、小さな音が近づいてくるのに気が付いた。  ざく ざく   ざく ざく  雪を踏みしめる微かな音。それが少女の歩む音だと分かるまで、さほどの時間はかからなかった。  蜂蜜を煮詰めたような甘い髪色をした少女が、ひとり彼の眺める窓の外を歩んでいった。歳の頃は十五~六を思わせた。それが正確なら、自分とは兄妹のような歳の差だった。片手には四角いランタンを持ち、肩には白いショールをかけていた。  雪明かりだけの光源の夜に、かくもはっきり彼女の姿が見えたのには理由があった。
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