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「水川菊さんね」
他の部員が楽器をケースに乱暴に詰め込みパートの練習室に置いてきたのに対し、水川はかわいらしいストラップのついたサックスの楽器ケースを、大事そうに膝に抱えていた。
「そのサックスは、個人のもの?」
「は、はい」
大半の部員が使用している楽器は学校の備品であり、使い古されて壊れているのも多々あるが、水川の楽器ケースは綺麗だった。
「ちょっと、吹いてみて」
「え……」
体が固まる水川を、サックスのパートリーダーが優しく励ます。水川は二年生ながらサックスのエースであり、彼女の音を聞かせることで新しい顧問である守山の機嫌が少しでも上方修正されればよいという期待も少しはあった。
「じゃあ、少しだけ。次の発表会の曲を」
水川は先輩たちが空けてくれた空間に楽器ケースを置き、カチャ、と留め具を外し、愛用するサックスを取り出した。
リードケースの内から優先順位は低いがそれほどコンディションは悪くないリードを細い指で軽く取りだし、マウスピースにセットすると、フーフーと楽器に息を吹き込んでは楽器を温め、指を慣らすようにスケールを行き来したのち、ジャズの曲を演奏し始めた。
それはソロ曲であり、守山はすぐ悟った。水川の言う発表会とは吹奏楽部の発表会ではなく個人の習い事での発表会だと。
サックスを手にすると水川は変わった。あれほどおどおどしていた少女が、まるで大人の女性のジャズシンガーが歌うように、情熱的に一曲を演奏した。
パチ、パチ、と守山が拍手をした。
「いいわね」
水川は誉められるのに慣れていないのか、顔を赤らめてうつむいた。
「ただ、貴女には足らないものがあるわ」
この演奏にまだ注文をつけるのかと部員たちはおののいたが、守山が指摘したのは演奏技術のことではなかった。
「水川さん、貴女はもっと自信を持つべきよ。胸をはって常日頃から歩きなさい。貴女にはその権利、いや義務があるわ」
「義務、ですか」
水川が反芻した。
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