第1部—プロローグ

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第1部—プロローグ

「ねえ、センセ」  すごい勢いで心臓が鳴っているのも知らないで、男というには若すぎる目の前の男子は、机から身を乗り出して、私の顔をかすかにのぞきこんだ。  まるで大好きなカブトムシを見つけた少年のように、無邪気にきらきらした光を目にたたえて。 「ここ、教えてよ」  なんでこんなに息苦しいほど緊張しているのか分からない。  目の前にいる彼が、ふっと視線を私から机の上の問題集に落とした。  その瞬間にさらりと落ちた茶色い髪が夕陽に透けて、今にも儚くなってしまいそうだった。 「……片桐センセ、」  何かを言わなきゃ、机の上の問題集に集中しなきゃ、先生らしく振る舞わなきゃ。  そう思うのに、身動きがとれなかった。  必死で問題集に視線を移した時、そこにある、シャーペンを握った彼の指が目に入った。  少しごつくて、長い、男の子にしてはきれいな指。  その指が少し右上がりの字を書くたびに夕陽がつくった影の中に問題の字が沈んで、答えより彼の指にばかり目が奪われる。  彼が顔を上げたのが気づいて目線だけをあげた時、視線が再びぶつかった。  ズズ、とイスを後ろにひきずった音がして、彼が立ち上がった。  結ばれた視線は外れることはなくて、私は彼を見上げるようにした。  黄昏に吸い込まれた沈黙だけが教室の空気を満たしていて、心臓の音が変わらずすごいスピードで鳴っているのが遠く聞こえた。  茜色に染まった彼の顔は、少し怒っているような、少し泣きそうな、少し拗ねているような表情で。  ゆっくり、彼が腰をかすかに折り曲げて顔を近づけてきた。  そのすべてがスローモーションのように流れていって、でも、私の顔から数センチの距離になった彼が一瞬だけ、近づくのをとめた。  その時に、私は、たぶん、いや絶対に、引き離すべきだった。  でもその時はまるで金縛りにあったみたいに、彼の顔が近づいてくるのを息をつめて見つめていた。  少しだけためらいがちな彼の息遣いが、私の唇数センチにまで迫った。  かすかに、ミントの匂い。  そう思った瞬間、唇に彼のが重なった。  まるでそうなることが自然な流れだったかのように。  わずかに唇から伝わる、ミントのすうっとした味と、少し乾いて、冷たく震えている彼の感触。  どうしよう、とか、いけない、とか、これから、とか。  そんなことを思う余裕なんかなくて、ただ目の前にいた彼に吸い寄せられるように、キスをしていた。  少し喘ぐようにして離れた唇が、再び重なって、さっきよりは深いキス。  ミントの匂いがぐっと近づいて濃くなった。  身体中の血が沸騰したかのようなめまいに襲われた。  力が抜けそうになって、ぎゅっと強く抱きしめられた。 「……ねえ、センセ」  熱を含んだ息が耳にかかった。 「オレと、つきあって」  大きく心臓が跳ねた。  私と彼の間にある机が痛くて、でもそれ以上に、彼の言葉が心に痛くて。  不意に教室の外の廊下から、遠い女子の声が響いた。  さようなら、センセー。って、そんなふうに教師に挨拶している生徒の声。  楽しそうで、明日が変わらずに来ると信じられる華やかな。  彼は、そっちの側、だ。  思わず、目の前の彼の胸にとん、と手をついた。  その顔を見る勇気がないまま、距離をとった。 「成瀬くん、ごめん」 「センセ?」 「ごめん、忘れて。どうかしてた」  それだけをのどの奥から押し出すと、私は上履きが床にこすれる音を立てて回れ右をした。  彼の方を振り返らずに教室を横切って、ドアを出た。  ちょうどこっちに向かってきた女子生徒たちが私の姿を見つけて手を振っているのが、まぶしくて、痛い。 「ちょ、待ってよ、センセ!」  背後でガタンとイスか机かにぶつかるような音と同時に、彼の切羽詰まった声がした。  振り返った。 「……成瀬くん、おふざけは終わり、帰りなさい」  形式ばった、先生としての言葉と、先生としての顔。  突き放した距離に、彼が一瞬目を見開いて、さっとうつむいた。  彼を、傷つけた。  わかってて言ったのに、動揺して、でも堪える。堪えなきゃいけない。  胸を刺した痛みを、教室の中の存在を断ち切るように教室のドアを閉めた。 「杏ちゃんせーんせ! 帰るのー?」  駆け寄ってきた女子達に向かってリノリウムの味気ない廊下を歩き出した。 「まだよ。仕事、残ってるし」 「教育実習生って、タイヘンなんだねー」 「そうよー。タイヘンなの」  どこか一線をひきながらも親しげに話してくる同性の声に、私は笑顔で応えた。  さっきまでの緊張と磁力のような時間を置き去りにして。  ドアが勢い良く開く音がして、一人の女子が私の背後の方に目を向けた。 「あ、成瀬、いたんだー」  身体中が一瞬にして強張り、後ろを振り向けなかった。  さらに乱暴にドアを閉める音がして、私は肩を震わせた。 「成瀬、なんか怒ってんの?」 「……怒ってない」 「うっそだ、怖い顔してんじゃん」 「ちょっとムカついてただけ」  風を切るように彼が私を見ずに横を通り過ぎた。 「えー杏ちゃん先生となんかあったりしてー」 「は?! なんでオレがこんな年上のと!」  えぐるような痛みが胸の奥に走って、泣きそうになる。  私よりも背の高い、制服の上からも感じた細身なのに筋肉質の、十代の背中が私を拒絶していた。 「ちょっとー、言い方ひどくない?」 「杏ちゃんセンセ、気にしない方がいーよー。成瀬、テキトーだからー」 「成瀬、一緒帰ろーよ。じゃ、杏ちゃん先生、ばいばーい」 「……気をつけて帰りなさいね」  周りにいた女子3人が、私の言葉なんて聞こえなかったように彼の背中を追いかけていく。  廊下の先で彼と合流した女子3人が、その腕にふざけるように腕を絡めて、それを彼が邪険に扱いながら、姿を小さくしていく。  その風景こそが正しくて、私はここにいて見送っているのがあるべき姿。  なのに、胸の奥がすごく痛くて、どうしようもないほど哀しくて、いまさら彼が私を抱きしめた感触を思い出した。  泣いてはいけない。  私は先生を目指す教育実習生で、彼とは実習期間3週間だけの生徒。  そのまま廊下を歩き出すと、上履きが磨いた廊下にこすれて泣いてるみたいな音がした。  私は、間違っていないはず。  私は先生で、彼は生徒。  そう思うのに、なんでこんなに不安なの。  なんでこんなに淋しいの。  唐突に下校のチャイムが鳴って、私はもう誰もいない廊下の真ん中に立ち尽くした。
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