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その奇妙な痛みは
「どうしたんだ、それ」
夫の隆司は帰宅するなり、声を挙げた。朝顔に気づいたのであろう。鉢は、リビングの隅に置いてある。最初はベランダに置こうかと迷ったのだが、夜は冷えるし、室内の方がいいのではと思ってのことだ。
豆腐を切りながら、佳代子は笑った。
「いただいたの。退職のお祝いですって」
「へえ」
隆司は軽く眉を顰めた。
「朝顔、嫌いなの?」
夫の声に不快の色が混じったのを感じ、佳代子はそう尋ねた。
「いや、お前にきちんと世話ができるのかと思ってな」
「失礼ね、植物くらい、私だって育てられます」
「そうかそうか、そいつは失礼」
隆司は軽く笑って、背広を脱いだ。几帳面に皺を伸ばしてコートハンガーに吊るし、ダイニングテーブルにどっかり座ると、新聞を読み始める。
退職の、ねぎらいの言葉はなかった。分かっていたことだけれど、少しだけ、胸の中に冷たい風が吹く。
――仕事、辞めたくなかったな。
鍋の中に、切った豆腐を放り込みながら、佳代子は自分がまだ後悔していることを改めて自覚するのである。
佳代子は会社を退職した。
妊娠が発覚したのである。
分かった時は、臨月のギリギリまで働くつもりでいた。大学を卒業してから三年、ようやく仕事が楽しくなってきたところであったし、今やめるのは勿体ない、産休を取り、子育てが落ち着いてきたら、復職する。そう考えていた。
それに難色を示したのは、隆司だった。
「初めての子供なんだぞ」
働きたい、と佳代子が告げると、隆司は目の色を変えて反対したものだ。
「家でゆっくりした方がいい。仕事なんかして、ストレスをためて、もし万が一のことになったらどうするんだ」
夫の気持ちは、佳代子にとっても嬉しいものだった。それでも、少しだけ失望を覚えたのは事実である。
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