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ひとが産まれた瞬間の記憶。
それは一体、いつ頃まで遡るのだろう。
よく、「物心つく」という言い方をする。
だが、それ以前の光景は、本当に、全く、覚えていないのだろうか?
ある作家は言う。
最初の記憶は、自分が産湯につけられる金だらい、そして、陽光であったと。
…槇貝慎一郎にとって、それはまさに凄惨な、悲劇的としかいいようのないものであった。
赤ん坊を見せられた瞬間、母親が、絶望のどん底に突き落とされたといってもいいほどの悲鳴を上げる。
「何故、何故、私の子なのですか!?先日産まれた、従姉妹のお滝の息子は、こんな子ではなかったのに…!」
母親が泣き崩れる。
…その傍らで、父親はただ青ざめていた。
「お常、落ち着いて聞きなさい。この子には、確かに『当主』の印がある。しかし、しかしだ…。
こんなことがあって良いものか…、少なくとも、古来より続く伝統ある『槇貝家』の、それも『当主』が…。
このような…このような、滅茶苦茶な話は、聞いたことがない…!
現・当主様は、おそらく、この子をご覧になったら、激しくお怒りになられるであろう。
…我々への罰が、叱責の類で済めば良いのだが…。これは、我々が、処刑され、闇の中へと葬られることとなるかもしれぬ…!」
「あなた、逃げましょう!この子を連れて、遠くまで、逃げましょう!『東京』なら、人で賑わう街のはず…!家を借り、この子を隠せば、追っ手は迫って来られないかもしれません!」
父親が、しっかりと母の両肩を掴む。
「駄目だ。たとえ異国に逃げたところで、『槇貝家』の者に、すぐ捕まるのがオチだ。我々は、運命を受け容れるしかないのだ、お常…!子供は、他に4人いる。跡継ぎにふさわしい、男子もすでにいる。これから増やそうと思えば、増やすこともできる。
…この子のことは、諦めろ。死んで生まれたのだと思え。隠したところで、隠しきれるものではない。…おそらく、『槇貝家』の占星術師がすでに把握しているだろう。『当主』が産まれたことは、天の星々が物語っているのだ…!」
静まり返った部屋の中に、母親の嗚咽だけが、哀しく響き続けた。
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