「バケツがお友達」から始まる「華麗なる経歴」・井上毅の事情

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「バケツがお友達」から始まる「華麗なる経歴」・井上毅の事情

船上。甲板の上で、官僚・尾崎三良は、ふうっ…と息をつきながら、ぼんやりと、目の前に広がる群青色…どこまで行っても「海また海」という光景を、ただ眺めていた。 陽射しのあまりの眩しさに、時折、目を細めずにはいられない。 たまに、何の鳥なのかよく分からない、白い、大きな鳥が、真っ青な空をかすめるように、すうっ…すうっ…と、実に優雅に、そしてのどかに、飛んで行く。 (俺は、フランス語の『アベセ(ABC)』も分からん…。この『司法省随行官員』に決まった時は、正直、嬉しかったが…。『こんにちは』も『さようなら』も喋れない俺に、一体、何ほどの成果があげられるというのだろう…。 語学に関しては、すべてが井上君頼み…!正直、先輩格や上司に随行するよりは、友人である井上君と共に行動した方が、圧倒的に気が楽なのは確かだ…。 しかしな…まさかの事態であったが、その井上君がなぁ…。) ちら、と後ろを振り返ると、尾崎はゆっくり、自らの船室に戻った。そう。上の方の計らいで、尾崎の船室は、井上と同室である。パタン、と扉を開けると、例によって例のごとく、「その井上君」が、バケツを抱えてうずくまっていた。尾崎の姿が視界に入ると、ようやくバケツから顔を上げ、肩ではぁっ、はぁっ…と、荒い息をつく。もともと青白い顔色が、青を通り越して、紙のように真っ白になっている。 「尾崎君…ねぇ…、さっきの吐き気止め、もう1錠、くれませんか…?」 「井上君、きみさぁ、今朝から何錠、吐き気止めを飲んだか、自分で覚えてる?」 尾崎が、呆れ返った表情で言う。 「いや、あの…僕、吐き気止めの錠剤を飲み込んだ瞬間に、それを即刻、リバースしてるんですけど…。」 「じゃあ、もう、吐き気止め、要らないんじゃない?」 「そんな冷たいこと…言わないでくださいよぉ…。」 井上は、ゼェゼェいいながら喋り終えると、船室のベッドに仰向けに横たわり、手の甲で額の汗を拭った。 「あ…尾崎君…この手拭い、もういい加減ぬるくなっちゃってるんで…冷やして来てくれませんか?」 「俺はお前の奥さんか!」 さすがの尾崎が、ぶち切れる。 「いや…僕の奥さん、正直言って、そんな優しくないです…。」 「だったら何で!?何で、身内以上の親切を、俺に求めんの?お前、バカか?」 「すいません…ホント…ホント、大きな声は、勘弁してください…頭にガンガン響くんで…。」
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