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そうして行き着く先は、決して桃源郷でもイーハトーブでもない。
それがどこなどと知る術は私にはない。だが、そこに向かってはいけない。
それだけのか細い確信だけが今日の私を支え続けてきた。
散歩から戻って来ると妻はすでに出かけていた。キッチンの流しで茶碗を洗う義母の丸い背中を覗き見て、私は隣のリビングに足音を立てないよう気をつけながら入る。
さながら泥棒になったかのようなスリリングな気持ちが場の空気を滞らせる。
抜き足も差し足も分からず、ぎこちなく進む足元は傍から見たらきっと笑えるに違いない。
リビングのテーブルには目玉焼きが乗ったパンとサラダが置かれていた。そのすぐ横には香織からの手紙があった。
『雅和さん、いつも冷たくしてごめんなさい。
私もこの一年間環境が変わって、
それにどう対応していくかに迷っていて。
まだ時間がかかると思うけど、
お互いにいい方向に改善していこうとは
思っています。なので、今度雅和さんの
意見も聞かせて下さい。一緒に頑張ろう☆』
それが香織の本心かは分からなかった。
今朝の態度からしてもそんなことを思っているようには全く見えなかった。
恐らくそれは義母に何か言われて、仕方なく書いた偽書なのだろうと思わずにはいられなかった。
私は確かに馬鹿だが、それを素直に信じられるほど馬鹿ではない。
この家の居候という立場であって、何の家事もせずにのうのうと過ごしている(ように見えるだろう)私にそんな甘い言葉は必要ないのだ。
「無職なんだから家事をしろ!」などと率直に言えば、自殺するかもしれないと彼女は思っていることだろう。
それに対し「違うの?」とでも聞かれたら私は言葉を失くすだろう。
阿吽の呼吸というのは案外繊細なものなのだ。少しのズレが生じただけでお互いを傷つける、言わば空中ブランコのように。
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