2人が本棚に入れています
本棚に追加
大妃殿の植え込みの槿の白い花が強い日差しに照らされてまぶしく見えた。この国には槿が多い。『木槿国』と称されるだけのことはある。子玉の住む村にももちろん槿の木があり、夏になると多くの花を咲かせてくれる。
「ここにも木槿が……」
傍らにある槿の花を見た子玉は笑みを浮かべた。
「木槿はどこも同じなのね」
彼女の村と同じくここでも今が盛りである。こんな些細なことでも彼女の心を安らげてくれた。
子玉は、郊外の村の農民の娘だった。彼女の家は、日々食べていくのが精一杯の暮らしをしていた。食べていける年はまだ良い方である。天候が悪く少しでも農作物の収穫量が減れば、何も口に出来ない日が幾日も続くのだった。
今年はそういう年になりそうである。子玉の父母は不安な日々を送っていた。
そうしたなか、数日前、村にやってきた負商(行商人)が子玉に目をつけたのである。
「この子を譲ってもらえないだろうか?」
彼は子玉の父親にこう持ち掛けた。家の状況がこのように窮している以上、断る理由はなかった。娘をこの男に託せば、口減らしになり、また幾らかの金銭も入るであろう。
「あんたの妾にでもするのか?」
父親は軽口を叩きながら、娘の先行きについて聞き出そうとした。少しでも、ましな暮らしが望めるよう願いながら。
「わしみたいな老いぼれのところじゃ、気の毒ってもんだ。この子には宮中に行ってもらう」
「宮中……って王様のいらっしゃるところか!」
予想外の返事に父親の声は上擦ってしまった。
「いや、王様のもとではなく、大妃さまのところだ」
負商は言葉を続けた。
大妃殿で下働きの少女を探しているのだが、官婢の中には年齢その他の面で適当な娘がいなかった。そこで、外部から探そうということになったのである。負商は、各地を廻って見た結果、子玉が年齢を始めとして様々な点で条件に適っていると判断したのである。
身分は婢女になってしまうが、食べることには不自由することはないであろう。仕事はきついだろうが、それはここでも同じである――。
父親は、子玉を負商に託すことにした。
負商は父親にその場で金を渡した。予想を超えた金額に腰を抜かしかけた父親だが、すぐに、これで当分、妻と子供を食べさせて行けると大喜びした。
その日のうちに、子玉は負商と共に村を出た。家族と別れるのは悲しかったが、自分が家を出ることで皆の生活が楽になると思うと気持ちが少し楽になった。
京師までは一泊の距離だが、その道中は予想外に楽しいものだった。自分の生まれ育った村から出たことのない子玉にとっては、見るもの聞くもの全てが珍しかった。そのため、負商は質問攻めになっていた。
「本当、お前は何も知らないんだなぁ」
呆れた口調で応じる負商だが、内心〝これだけの好奇心と積極性があれば宮中でも上手くやっていけるだろう〟と確信した。
日が西に傾く頃、二人は酒幕(旅籠)に辿り着いた。
「ここは、どちらの御宅なのでしょう?」
酒幕を初めて見た子玉は、この大きめの家屋を地主か長者の住居だと思ったのである。
「ここは宿泊するところだ。今夜はここに泊まるんだよ」
そう応えながら、負商は建物の前に置かれた幅広の縁台に腰を掛け、子玉にも掛けるよう促した。そして、
「お~い」
とここの女将を呼んだ。
すぐに「いらっしゃいませ」という返事と共に髪を高く結った女性がやって来た。白磁のようになめらかな面に紅い花弁のような唇の女将を見て子玉は
「きれいな人」
と思わず呟いてしまった。
これを聞いて女将と負商は大笑いした。
「まぁ、嬉しいことを言ってくれる」
女将は子玉に向かって微笑んだ。次いで
「この子の分の勘定はタダでいいわ」
と負商に向かって言いながら注文を取った。
女将が去ると、負商は
「お前なぁ、あの程度で綺麗だの何の言っていたら、都に着いたら腰抜かすぞ」
と忠告らしきことを冗談めかしていった。だが、子玉は理解し難い表情をした。
――この子の村の女たちは身なりに気をつかう余裕もないから、分からないのだろう。
負商は子玉の村の有様を改めて思うのだった。
「お待たせ~」
女将は酒と煎、団栗豆腐、漬物の載った膳を二人の前に置いた。
「こんなご馳走を……」
こんな質素な食事に感激する子玉に負商も女将も同情を禁じえなかった。
夜になって、就寝の時も布団の上に身を横たえることが出来ると子玉は喜んだ。
翌朝、早々に酒幕を出た二人は都へと歩みを進めた。
大門をくぐり、都に入ると負商の予想通り、子玉は全てに目を回していた。しかし、これは子玉にとっては楽しいことであった。
まもなく大妃殿の裏門に着いた。奥から年配の女性が現われたが、髪型、衣装、化粧等々が、子玉の見たこともない美しいものであった。
――こんな方がいるこの場所は仙女の国ではないだろうか。自分みたいな者がここでやっていけるのだろうか。
子玉は気後れし始めた。この気配を察した負商は
「大丈夫だよ。お前なら充分勤まるさ」
と激励した。
負商と大妃殿の女性が二、三、言葉を交わした後、子玉は女性に託された。そして、負商は去っていった。
最初のコメントを投稿しよう!