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ある日、縁側で子石が書物を捲っていた。
「何を読んでいるの?」
子玉は弟が本を読むとは思っていなかった。
「農業に関するものだよ」
と応えながら書物を子玉に手渡した。諺文で記された農書だった。
「どこで手に入れたの?」
「官衙で借りたんだ」
子玉から諺文を習った後、弟たちは村の書堂(寺子屋)に行き、本を借りるようになった。だが、ここの書物は経書を易しくしたようなものばかりで、彼らの求める内容ではなかった。そのことを訓長(先生)にいうと官衙に農業関係の実用書があると教えてくれた。彼らはさっそく官衙に行き初歩の農書を借りた。それらを参考に様々なことを試みて生産力を上げたそうだ。弟たちは、子玉が渡したもの~給金や文字を有効に使っていたのだった。娘の稼ぎをつまらぬことに浪費する家族の話をよく耳にするが子玉の家族はそうでなかった。子玉は自身の家族を誇らしく感じたのだった。
「あれからどのくらい経ったのだろう…」
青郁は時間を持て余していた。大妃殿にいた時は、文字通り日の出と共に起きて子玉に手伝って貰いながら素早く身支度を済ませ勤務先に向かった。主人である大妃に挨拶すると、すぐに仕事に取り掛かった。筆を手にして主人に代わって文を書いたり、使いに出たり、下の者への指示を出したりと一日中大忙しだった。それらは全く苦にならず、むしろ面白く思った。
一日の仕事を終え、部屋に戻ると子犬のように珠香(子玉)がやって来て青郁に抱きつく。その後、二人きりで就寝時間までまったりと過ごすのだった。
今は朝目覚めても脇には珠香の姿は無い。夜も一人で床に就く。以前は当たり前だったことなのに、今は寂しくてたまらない。詩歌に出てくる「独守空房」というのはこういうことなのだろうか……。
実家では〝お嬢さま〟である青郁は、何もすることが無い。書物を読んだり、手習いをしたり、刺繍をしたり、時には母親の話し相手になったりするが、物足りない。本の内容について語り合ったり、習字や出来上がった刺繍に何かを言ってくれる人がいないのは張り合いの無いこと、いや、それは珠香でなくては意味のないことだ。
彼女は決心した。珠香を引き取ろうと。青郁の家はその程度の経済的な余裕はあった。大妃殿の時のようにこの部屋で二人で暮らそう。ずっと一緒に書を読んだり、お針をしたり、草木を愛でたりしながら過ごしていこうと。
だが、事は思い通りに運ばなかった。ある日、青郁は父親からこう告げられた。
「王妃さまが、お前に来てもらいたいとおっしゃるのだ」
大妃殿での仕事ぶりを聞いた王妃が青郁を致密尚宮として手元に置きたいとのことだった。王妃の命とあらば断ることは出来なかった。両親としては、このまま家にいて欲しかったようだった。宮女となった者は退職しても結婚は出来なかった。建前上は〝王の女になったため〟ということになっているが、大殿以外の宮女に王の手が付くことはありえない。実際は王族たちの私的生活について外部に漏れることを防ぐための措置であろう。青郁一人くらいの面倒は十分に見られるのだから、これ以上親元から離れて働くことを父母は望まなかったのである。
青郁自身は、再度の出仕を喜んだ。このまま家にいても退屈だった。そしてもしかすると珠香に会えるかも知れないという望みがあったからだ。もし駄目でも何らかの方法で呼び寄せようと決心した。
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