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こうして青郁は再び髪を結い上げ、緑色上着紅色下裳を纏った宮女となったのである。
「…世の中にはそううまい話などある訳はないか」
内殿(正妃殿)には子玉の姿はなかった。だが、青郁は失望しなかった。次の手を考えるだけだ。
子玉に突然結婚話が起こった。相手は同じ村の李哥という鰥夫(やもめ)だった。子玉に一目惚れし是非嫁に迎えたいと言ってきたのだ。宮女と異なり、大妃殿で働いていても端女の場合、退職後は結婚しても構わないのである。
「四十歳過ぎの子持ち男なんだが…。嫌だったら断ってもいいんだよ」
「そうだよ、姉さん。何も今さら苦労することはないよ」
父母も弟たちも李という男をあまり良く思っていないようである。金持ちではあるが、女にだらしないという噂のある人物だった。
「このお話進めて下さい」
子玉は李哥の請婚を受けることにした。一日中することのない生活は退屈だった。それに青郁がいないのなら、どこで暮らしても変わらないのである。
李哥は子玉が嫁に来てくれることを大そう喜んだ。嫁入り道具等は全て用意してくれた。結婚式の当日に初めて新郎に会った子玉だが、父親よりも老けて見える夫に対し特に思うことはなかった。
経済的に豊かな李哥の家は使用人も何人かいた。農作業も家事も使用人が行なうので子玉が実際にすべきことはほとんど無かった。一家の主婦として使用人に指示を出すのが彼女の仕事だった。大妃殿で端女の長をしていた子玉にとっては容易いことだった。
若い妻を迎えた李哥の女遊びはぴたりと止んだ。彼は子玉を可愛がり、装身具、衣服等々、様々なものを買い与えた。子玉もそうした夫に好意に応じて妻として尽くした。また、弟の子石と変わらない年齢の息子・鉄も彼女に懐いてくれた。
間もなく子玉は身ごもった。夫も鉄も、そして実家の家族も大喜びした。そうしたなか、子玉自身を嬉しくさせることもあった。青郁から手紙が届いたのである。封を開くと懐かしい香りと共に端正な宮体で書かれた文章が現われた。
――碧香さま……。
子玉はさっそく文字を追い始めた。
――碧香さまは今度は内殿に出仕されたのですね…。鉄とお腹の子の母親となった私はもう碧香さまの側には行けそうにありません。
手紙を読み終えた子玉は夫と息子の手前、涙を必死に堪えたのだった。
内殿の自室で青郁は珠香(子玉)からの手紙を読み進めていた。
――あの珠香が母親になるのか…。
とても不思議な気分だった。髪を上げても少女のような子玉が子供を産むなんて……。生まれてくるのは、きっと女の子に違いない。何故か確信した青郁は、珠香とその娘を引き取る方法を考え始めた。いつか絶対に三人で暮らそうと決めたのだった。
奥の部屋で子玉は胎教に関する冊子を読んでいた。青郁が内殿の図書寮の書籍の中から胎教に関する部分を抜き出し書き写したものを綴じたものだった。
宮体で書かれた諺文で記述された文章に接していると、青郁が側にいるように感じられた。
農繁期が過ぎ、李哥の家ものんびりとした雰囲気になった。ある日、鉄が文字を教えて欲しいと子玉のもとに来た。母親が読書する姿を見て文字に関心を持ったようである。子玉はさっそく教え始めたのだが、鉄は物覚えが良い方とは言い難かった。それでも十日目には諺文を何とか身につけた。
新年を迎え、春、夏と季節が移り、初秋になった頃に子玉は出産した。女の子だった。初めて得た娘に李哥は大喜びし、鉄も新しく出来た妹を歓迎した。
実家の家族たちもやってきて、李哥の家は賑わっていた。
「やっぱり女の子だったのね」
久しぶりの子玉からの手紙を読みながら青郁は満足そうに微笑んだ。赤子――鍾の真名を付けて欲しいとの子玉の依頼に応え、青郁はあれこれ考えた末に〝鈴香〟とすることにした。鍾の類義語に母親と自分の真名の一字を合わせて。
珠香(子玉)の子は自分の子でもあるのだから。
青郁が子玉への返事をしたためた日、内殿では慶事があった。王妃が懐妊したのである。青郁の頭にある考えが浮かんだ。
――珠香を御子の乳母にしよう。
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