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翌日から、青郁は大妃のいらっしゃる御殿に〝出勤”するのだが、彼女は全く手の掛からない主人だった。自ら髪を整え、化粧も着替えも全て自分でしてしまうのである。食事は殿舎の中の専用の場所で摂るのだから、今朝、子玉がしたことといえば盥に洗顔用の水を汲んできたことだけだった。
その上、青郁は、出掛けるまでまだ時間があるといって、子玉の髪を直したり薄化粧を施してやったりもした。
青郁から渡された鏡を見て子玉は驚いた。そこに映っていたのは彼女の知らない娘だった。
「これが子玉の本来の姿よ。あなたは可愛いのだから」
出勤の時刻となり、二人は部屋を出た。青郁は大妃殿に向かい、そこの一角で朝食を摂り、子玉は下働きの詰め所のようなところで朝食を食べた。
大妃殿での青郁の仕事は、主人である大妃の側に侍ってその手足となって、おもに事務的な事柄を処理することである。新入りである青郁は一番端に控え、最初は先輩たちの仕事ぶりを見学し、その後、少しづつ簡単な仕事を担当するようになった。
一方の子玉は、青郁の身支度を手伝い、主が出掛けると部屋を片付け、掃除をし、それが終ると洗濯場に行った。自分の主人関係の仕事が終ると、廊下や庭などの共用部分の清掃やその他の殿中の雑用をこなした。
日勤の場合、青郁は日没後に部屋に戻る。その時間には子玉も部屋にいて、就寝するまでくつろいでいた。当初は、主人の青郁の休息の邪魔にならないようにと隅の方に控えていようとした子玉だが、青郁が側にいて欲しいというので、寄り添うようになった。仕事が終わり部屋に戻ると、二人はその日あったことを互いに伝え合った。
青郁からはいつも佳い香が漂っていた。子玉はこの香をかぐと疲れも嫌なことも全て忘れられた。
父親の徐大監の予想通り、青郁はその実力を発揮し、次第に頭角を現していった。読み書きが出来ることはやはり有利である。彼女は出仕一年目にして大妃の御祐筆の地位になったのである。短期での地位上昇は周囲の嫉妬を買い易いものである。それをうまく処理出来るように補助したのが子玉である。彼女は、同僚たちから情報を集めて主人に伝えたり、助言した。その甲斐もあり、青郁は悪意に妨げられることなく、仕事に専念出来たのである。
大妃殿での仕事は青郁に向いていたせいもあり、楽しく遣り甲斐もあった。また、仕事以外の時間は、子玉と心安らかに過ごした。
ところで、農家出身の子玉は読み書きが出来なかった。出来なくても特に不便がなかったからである。青郁と子玉の休日がちょうど重なった日、青郁は子玉に文字を教えることを提案した。
「文字を学べば実家に便りを出すことが出来るし、また書物も読むことが出来るわ。」
「でも私の親兄弟は読み書きが出来ないので手紙を書いても……。」
「だったら子玉の家族にも文字を教えればいい。書物を読めばいろいろなことを知ることが出来る」
こうして青郁は子玉に文字教育を始めた。諺文(ハングル文字)は簡単だったためすぐに覚えてしまった。続いて「千字文」等を利用して漢字の勉強も始めた。子玉は、こちらもすぐに覚えた。
「すごい! 子玉は賢いわ」
子玉は読み書きに興味を持ったようだった。青郁は彼女のために初歩的な内容の本を借りてきては、互いに仕事のない時に一緒に読んだ。子玉の読解力は日々向上し、やがて三国志演義のような大陸の小説や自国の物語も読めるようになった。二人は、これらの感想やその他について語りあったりもした。これは、二人にとって至福の時だった。
その日も子玉は時間が出来たので手習いをしていた。仕事を終えて部屋に戻った青郁は、子玉の隣に座ると彼女が使っていた砂板の字を消すとそこに「碧香、へきか」と書いた。
「これが私の真名」
楷書と宮体で書かれた真名を子玉は声を出して読んだ。
〝碧い、香り、まさに青郁さま、そのものを表わしているのね〟 子玉は砂板に書かれた文字を感慨深げに見入っていた。
「……子玉の真名も教えて」
青郁の問い掛けに子玉は、はっとして顔を上げた。
「百姓(農民)の娘にそんなものはありません」
〝名前〟を複数もっているのは身分の高い方々というのが一般庶民の感覚である。
「じゃ、私が付けてあげる。子玉の玉と同じ意味を持つ〝珠〟と私の真名の〝香〟をお揃いにして〝珠香〟にしましょう」
そういいながら青郁は砂板に書いた自分の真名を消して〝珠香、ジュヒャン〟と楷書と宮体と記した。
「ジュヒャン、珠香……綺麗な名前。でも私には不似合いです」
「そんなことは無いわ。珠のようにまぁるい珠香」
「私のどこが丸いのですか?」
「す・べ・て」
子玉は、周囲を和ませる雰囲気をしていると青郁は常々思っていた。性格的に尖ったところのない子玉は〝丸い〟空気を漂わせている。そのお蔭でここでの暮らしがうまく行っていると思う時が多々あるのである。
「これからは、二人だけでいる時は真名で呼び合いましょう」
真名で呼んでいいのは、両親や祖父母、一族の年長者や師匠くらいで、その他の人々は呼ぶのを憚れている。子玉が主人である青郁の真名を口にするのは本来あってはならないことなのである。
「珠香、ジュヒャン……」
青郁は背中から子玉を抱きながらその真名を呼んだ。
「青郁さま……」
胸の少し上で組まれた青郁の腕を掌で軽く触れながら応えると
「青郁じゃなくて、碧香」
と正した。
「はい、碧香さま」
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