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青郁と別れた子玉は外庭に出た。迎えに来ているはずの子石を探そうとする彼女の名前を呼ぶ声がした。
「おじさん!」
彼女を大妃殿に連れて来た負商だった。
「弟は?」
「ちょうど、こっちに来る用事があったので子石の代わりに迎えに来たんだ」
二人はかつて来た道を戻って行った。子玉は〝外の世界〟を見るのは久しぶりだった。十年前は天界のように見えた都の風景も今の子玉には色あせて見えた。彼女が暮らしていた大妃殿こそが別世界であった。それに引き換え彼女がこれから身を置く故郷は鄙びた田舎である。生活は不自由この上もないだろう。
子玉にとって、それは大した問題ではなかった。碧香さまと離れること、何よりもそのことが一番辛かった。
「子玉や」
前回とは異なり、一言も喋らない子玉を気に掛けてか負商は優しい口調で問いかけた。
「今後の生活だが心配しなくて大丈夫だ。お前が大妃殿に行った後、お前の家はとても豊かになったんだ。お前一人くらい十分に養って行けるさ。と言うより、お前のお蔭で暮らし向きが良くなったんだ。実家で堂々としていればいいのさ」
その間、子石の手紙から実家の生活が上向いていったことは知っていた。子玉が大妃殿入りする際受け取った金をもとに土地を買って小作人から自作農になり、その後は収穫が年々向上し、以前のように食うに困ることは無くなったそうだ。
大門を抜け、都を出ると周囲は一転する。草木の多い風景は子玉が親しんだものである。間もなく酒幕に着いた。十年前と同じく女将が応対してくれた。
「……子玉なの! すっかり都の水に馴染んだようで美人さんになったわね」
「女将さんも相変わらずお若くて」
「お世辞も上手になったわね」
女将は楽しげに、二人の食事の準備を始めた。
「このようなもの、口に合うかどうか…」
以前と同じ食膳を出しながら女将が言うと
「大妃殿の食事も大したことありません。こんなご馳走は特別な日くらいしか食べられません」
と子玉は美味しそうに食べ始めた。
殿中で働き始めた頃、新入りの子玉と青郁の食事は最後の方だったため、いつも少ない残り物を食べていた。若い二人の空腹はとても満たされなかった。青郁は実家から点心や果物等を取り寄せていた。仕事が終った後部屋でそれらを食べるのが二人の秘かな楽しみだった。味もさることながら、二人で身を寄せながら過ごせることが子玉にとっては嬉しかったのだ。
――もう私の側には碧香さまはいない……。
負商や女将の手前、子玉は泣きたい気持ちを抑えるのだった。
翌朝早々、酒幕を発ったお蔭で村には昼過ぎに着いてしまった。
村の様子は子玉の知るものとは異なっていた。貧しげな風景は変わり無いのだが、子玉の家が見当たらなかった。
「もうじきお前さんの家だよ」
負商は歩きながら言った。
暫くすると「姉さん!」と手を振りながら駆けて来る二人組の姿が見えた。子石と子岩だった。二人とも立派な若者に成長していた。
弟たちは「お帰り、姉さん」と言いながら子玉の背を押すようにして、大きめな家の門を潜った。その後に負商が笑いながら続いた。
「ちょっと、あんたたち…」
子玉は、訳が分からなかった。
「子玉、元気だったか」
母屋の出入口で父母と少女が出迎えに出ていた。弟たちを含め家族皆が身ぎれいになっていた。
「とにかく中に入りましょう」
母親は子玉の手を取ると家の中に入った。
「わしはこれで」
負商は子石の耳元で言うと
「おじさん、ありがとう」
と礼を言った。役目を終えた負商は去っていった。
広い屋内は子玉の知る実家ではなかった。広め部屋に父親と子玉母娘、弟二人と少女が入っていった。
子玉は、まず両親にねぎらいの言葉を言い、その後はそれぞれがその間のことを話した。大体のことは、子石の手紙で知っていたが、こうして実際に見聞きすると、歳月の流れをしみじみと感じられた。特に子石が結婚したことは今初めて知ったので感慨深かった。子石の背後で縮こまっている少女―松伊が子玉の新しい妹だった。
新しい〝実家〟には、子玉の部屋も用意されていて、これから彼女はここで暮らすことになった。家族との生活は気楽で快適だった。子玉には、特にすることは無かった。家事は母親と松伊で十分間に合い、野良仕事は使用人が行ない、父親と弟たちは〝経営〟を担当していた。
することの無い子玉は、家族の着衣を縫ったり、小物作りや刺繍などをして日々を送っていた。そして、改めて青郁がいないことを実感した。夜一人で床に就くこと、朝目覚めても一緒に身支度をする人がいないこと、一緒に庭を眺めたり、お菓子を食べさせ合ったり出来る人がいないこと……、こうしたことが、これほど寂しいこととは思わなかった。青郁は既に子玉の一部となっていたのだった。
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