第1章

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「いいか、大久保君は優秀だ、それに研究の成果もあがっていて、研究員の指導についても評価もされている。障害があるとすれば歳が若すぎるということくらいだ」 城山は湯?を置いて、美由紀の眸を見た。 「分かりました、もうこれ以上言いませんわ」 彼女は父親の話に手ごたえを覚えた。 帰り道、地下鉄に揺られながら、彼女は学部長夫人という肩書きに思いを馳せた。 彼女が夕食の支度をしていると、大久保が散歩から帰ってきた。 「おかえりなさい」 「どこへ行ってたんだ」 「お父さんのところよ」 彼は嫌な予感がした。 「なにしに行ったんだ」 「べつに用はなかったんだけど」 「なんの話をしたんだい」 「そうそう、学部長交代の話がでたわ」 やはりそうか、と彼は思った。 「ちょっと出てくる」 息苦しさを覚えた彼は家をでた。 遥か彼方の山の端に沈む夕陽が空を深紅に染めあげ、心の奥まで照らされているように感じた。涼やかな風を頬に受けながら、彼は祇園への道をたどった。街が薄闇に浮かぶころ行きつけの割烹に入った。 「いらっしゃいませ」 「よう」 週末の店は客もなく閑散としていた。 「めずらしいですね、今日はお一人」 馴染の主人が愛想よく声をかけてきた。 大久保はいつも研究員を引連れて来ていた。圭彦も幾度か連れて来たことがあった。 「たまにはひとりで呑みたいときもあるんだよ」 「はいはい、そうですか、ビールですか」 「うん、そうしよう」 彼はグラスの生ビールを半分ほど一気に呑んだ。 「おー、いい呑みっぷりだ」 主人はおどけた様子で言った。 「今夜は呑みたい気分でね」 「それじゃ、どんどんいきましょう」 「今日のお奨めはなんだい」 「いいかんぱちが入ったから刺身がいいかな」 「うん、それにしよう」 「グラスが空いてるよ」 「それじゃ、冷酒にするか」 「なにがいい」 「獺祭にするか」 「ほー、酒の味の判るおじさんだ」 枡一杯に注がれた冷酒がカウンター越しに出された。 肴もそこそこに、彼は枡を重ねた。 「今日はすごい勢いだな、大丈夫か」 「大学ってとこわね、いろいろあるんだよ」 「さもありなん、俺は途中退場してよかった」 主人はかつて大久保と同じ医学部に通っていた。二年生のとき実習の解剖ができず、自分が医者に向いてないことを悟り退学した。 「お前は先見の明があったな、羨ましいよ」 大久保は独り言のように言った。
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