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「俺はその美味しさにびっくりした。じいちゃんにこれで商売を始めたらと言ったら、このどんぶりは特別な玉子が必要だから無理だって言われた。俺は、大きくなったら自分が店を開くと言い、じいちゃんは笑って作り方を教えてくれたんだ」
よく混ざった卵にお玉でだし汁を加え、さらにかき混ぜる。
「特別な卵って?」
「じいちゃんは近くの農家が放し飼いにしている鶏の卵を使ってた。庭を駆け回り、草やミミズを食べて育った鶏だ。養鶏場の卵とは全然違う」
鍋に水とあさりを入れ火にかける。煮立ってきて、あさりが口を開いたところで、火を止め、味噌を溶きいれる。
「じいちゃんとの約束を思い出したのは、ずっと後のことだ。機械メーカーに就職して、営業で全国の取引先を回るうちに、あちこちに名産と言われる卵があるのを知った。そこで卵を買って帰って、じいちゃんに教わった方法で玉子どんぶりを作ってみた」
店長は、行平鍋を手に取った。柄が斜めに付いた浅い鍋で、鍋底は厚く使い込んだ赤銅色をしていた。行平鍋に卵液を注ぎ込み強火にかける。
「でも、どこの卵を使ってもじいちゃんの味にはならなかった。卵自体の旨みが欠けていたんだ」
卵液が煮立ち始めた。店長は先がまっすぐな木べらで、底をこそぐようにかき混ぜる。卵液の中に塊が現れ始めたところで火を止めた。そのまま余熱で加熱する。
「続けていくうちに意地になった。絶対、じいちゃんの味を出せる卵を見つけてやる。見つけたら本当に店を開こうってね。何年も卵探しを続けたんだ」
店長は炊飯釜から、どんぶり二杯分のあつあつのごはんを木桶に移した。お醤油をかけた鰹節を加え、切るように混ぜあわせる。鰹節の香りが立ち上った。
「そしてとうとう見つけた。山あいの小さな養鶏場だった。鶏をケージに押し込めるのではなく、裏山に放し飼いにしていた。そこの卵で作ったどんぶりは懐かしいじいちゃんの味だった。そうしてこの店を開いたんだ」
ごはんを二つのどんぶりに移し、行平鍋を手に取る。半分固まった玉子に木べらでまっすぐ線を入れて二つに分け、ごはんの上にくるりと回して盛った。その上に三つ葉を載せ、お椀に注いだあさりの味噌汁、野沢菜の漬物の小皿とともに角盆に載せた。
「と言う訳で、本当は特別の卵だけで作ったものを食べてほしかったんだけどな」
言葉とともに、角盆が早紀の前に差し出された。
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