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柔くんとの生活は 夜の間に積もる雪のように あるいはそれらを溶かす春の太陽のように 静かにそしておだやかに 私、を満たしていく 気付けば同じ家で暮らして 一年が経っていて その間、私達に 身体の関係は存在しなかった それは同棲している 大人の男と女の関係としては 不適切で奇妙なものだと私は感じ 一方で心のどこかで安堵し そんな自分を嫌悪する 何度かそれを繰り返した後 耐えられなくなった私は 柔くんに尋ねた 「柔くんはさ、そういうこと、しないの?」 二人ベッドに寝転んで 睡魔と相手の温もりに微睡んでいる最中だった そう聞いた声は 自分でもわかるくらい 硬く強張っていて、こんな状態じゃあ 柔くんも躊躇ってしまうなと我ながら思う 柔くんは驚いたように目を見開いた後 困ったような苦笑を隠すように そっと目を伏せた その仕草に私は身勝手にも 呆れられたんじゃないか 嫌われるんじゃないか と動揺する 「あ、あのね」 「翠はさ」 慌てて取り繕おうとする私を 柔くんはいつのまにか取り戻した 優しい笑顔を浮かべながら あえて、遮る 「どこか知らない駅のホームのベンチに 座っているんだと思ってて」 「?、うん」 「電車はいっぱい来るんだけど 翠は一歩、電車に乗り込む勇気が出なくて 或いはそこからの景色は 電車に乗った途端に 忘れてしまうのかもしれない。 俺に理由は分からないけど とにかくずっとそこにいるのね」 「…うん」 「俺は全然違う駅で翠のことをずっと それこそ生まれたときから、ずっと 待ってるんだよね …まあ、翠がどの電車に乗るのか 俺が翠を見つけられるかも わからないんだけどね」 まるで世間話するような 口調で話す柔くんに胸が締め付けられる   やはり気づかれていたのだ 私の中にある 澱んだ汚ない部分を 「でも、だからこそ 奇跡的に翠が俺のいるところに来てくれて ここでもいいよって言ってくれたら 俺は俺の全部で翠を幸せにしたい 此処からの景色も悪くないって思わせたい」 だから、待ってる そう笑う柔くんは 春のお日様みたいだなと思った 優しくあたたかく いつのまにか 私の心を溶かしていく 「…翠?」 気付いたら その大きな胸にしがみついていた 愛そう 愛そう、この人を この人ほど私を大切にしてくれる人は もう現れないかもしれない 胸の辺りで熱く 柔くんへの愛しさが弾けて 心を満たしていくのを感じた 抱いて。 そう口にしようとした瞬間 冷静な自分がどこかで呟く 愛そう、というのは 本当は愛していないんじゃないの そんな人と一生添い遂げるの それは彼を傷付けるんじゃないの 不穏なざわめきは 聞こえないふりをして 私は口を開いた 「私、ここにいる」 柔くんが息を呑む気配を 頭のてっぺんで感じながら私は これでいいんだと いっそう必死に 目の前の身体にしがみついていた
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