第1章

2/7
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
「あなたは、極上の美味を味わった事がありますか?」 不意に声をかけられ、キョウコは辺りを見回した。 大学の帰り道。 公園内は薄紫色の闇に染まっている。 「こっちですよ、こっち……」 老人のようなしわがれた声が、キョウコを呼ぶ。 振り返って見れば、隣接する森の木陰から、節だらけの白い手が揺れていた。 頭の隅で警鐘が鳴る。 けれどキョウコの足は、手招きされるまま、勝手に歩き出した。 近付けば近付くほど、白い手は遠ざかり、全身は見えない。 もう何分くらい歩いただろう。 それほど深い森ではなかったはずなのに、もう木々の間にさえ、建物が見えない。 ここは、どこだろう? でも、不思議と怖くはない。 「こっち……こっち……」 声に釣られて前を見ると、いつの間にか木々の間隔が開き、丸く開けた場所にいた。 血のように赤い満月の下、円の中心に、胴回りが一抱えもあるような木が立っている。 そしてあの白い手は、太い幹に巻き付くように腕を伸ばし、その木はだをスッと指先で撫でた。 すると指先が滑った所に一本の赤い筋が浮かび上がる。 黄金色の樹液だ。 赤い筋からフツフツと染み出す樹液が、やがて丸い雫となり、木はだを滑り落ちて行く。 カクテルのような甘い芳香が鼻腔をくすぐり、思考をトロリと溶かした。 「舐めてごらんなさい……」 声に促されるまま、キョウコは流れる樹液を指先で掬う。 水飴のようにベトベトした液体が、月光を浴びて黄金色に光る。 どんな味がするのだろう――? 甘い香りに誘われて、指先を濡らす樹液に舌を伸ばした。 ペロリ―― その瞬間、キョウコは台風に呑まれるような感動を覚えた。 舌の上にふんわりと広がる優しい甘さ。 鼻腔に抜ける、濃くも爽やかな香り。 『おいしい』なんて言葉じゃ足りない。 人間の言葉では、とても言い表せない。 これが『極上の美味』――? 「ハフゥ……」 我知らず、キョウコは感嘆の溜め息を漏らした。 指先の少しだけでは足りない。 幹を抱えるようにしてすがり付いたキョウコは、胸元が汚れるのも構わず、直接舌を伸ばして樹液を舐めだした。 もう、体面を気にする余裕すらない。 ただ一心不乱に『極上の美味』を味わうだけ。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!