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北斗に跨った博雅が、承明門を抜け、建礼門を出る。
走り出してまもなく馬の様子が変わった。 息が浅く荒くなり、瞳に怯えた色が混じる。
「北斗、案ずるな」
博雅が腕を伸ばして首を撫でる。朱雀大路を走り抜けて、羅城門を出た時に。
ふっと、後ろから腰にひやりとした手がまわされた。
無骨な男の手。指に細い銀の輪が光る。
「……誰ぞ?」
怯える風もなく、博雅が前を見たまま問い掛ける。
……鞍作りの馬飽(マーパオ)、とかそけき声がする。
「まあぱお?」
異国の人か、と博雅が思う。
「私は、博雅」
……ひろまさ、とうっそり呟く声。
「なぜこの鞍に憑いておる、馬飽?なぜ親王をとり殺す?」
馬を走らせたまま、博雅が背中に問いかける。
……わが愛馬を奪うものは許さぬ。
「笑止。北斗はわが馬なり」
馬が怯えて嘶くのを、博雅が宥める。
……われを殺したな。
軋るような声がした。
途端に腰に回った腕が恐ろしく重くなった。どっと冷気が染み込んでくる。
じわじわとその腕が上がり、博雅の胸から首へと這い登っていく。
「……ッ!」
不意に冷たい掌でその目を覆われた。驚愕の叫びを呑み込んだ博雅が、反射的に引こうとした手綱を意識的に緩めた。
突然目の前に暮れなずむ草原が広がった。
どこまでも続く草の海を、馬と一体になって走っている自分がいる。
そのすぐ後ろを別の馬が走っている。ひどく懐かしく慕わしい誰か……。
と、風の向きが変わり、物の燃える異臭が鼻をついた。はっと見上げる夕空に昇る黒煙。
……兄者ッ!
背後で叫び声が上がる。馬の前に、ばらばらと鎧を付けた兵士が飛び出てくる。
……馬と鞍を奪えッ!
突き出された槍に脇腹を突かれる。激しい痛みに息が止まる。どうっとばかりに地面に引き倒されて。
これは自分の見ている風景ではないと博雅は気づいたが、もはや感覚が同調してしまっていた。
嘶く愛馬が連れ去られる。霞む目で見上げれば、空を覆う真っ黒な煙。 村が、焼かれている。
頬を伝う涙を感じる。これも馬飽の流した涙だろうか?
……いや、あの時俺は泣かなかった。辛くて苦しくて涙なぞ出なかった。ただ悔しくて、ただ憎くて。
―――愛馬の鞍に憑く怨霊となってしまった。
馬飽の想いが流れ込む。
……泣いてくれるのか、ひろまさ。
不意に視界が戻ってくる。
眼前にはなじみのある春の風景。その中を猛った馬が疾走する。
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