第1章

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博雅は自分の腰を抱く腕が緩んだのを感じた。しかし手綱を引こうとした腕に力が入らない。痺れたように手の感覚が無くなっている。 ―――馬の走る先に、佇む男の姿。 「晴明ッ!」 博雅は必死の力で手綱を引き絞った。北斗が棒立ちになる。 一瞬風のようなものが馬と博雅を包んで。 ……嘘のように、馬が鎮まった。 「……晴明」 博雅は笑おうとしたがうまく行かなかった。身体が冷たく強張っている。その頬に涙が伝っているのを認めた晴明の顔が、厳しくなる。 「博雅を離せ」 低い晴明の声。 腰に回る腕が少し怯えるのに博雅は気づいた。 泣きたくなるほどの望郷の念がその腕から流れ込んでくる。 目を閉じて呪を唱え始めた晴明を博雅が遮った。 「晴明、待て」 詠唱が途切れて晴明の目が開く。博雅が背中に向かって話しかける。 「馬飽」 腕がぴくりと震える。 「人をとり殺すがお前の望みではあるまい。何が望みだ。言うて見よ」 「博雅!やめろッ!」 声を荒げる晴明を、目で制する。 「……馬飽?」 ……帰りたい、ひろまさ。故郷へ……あの草原へ。愛馬と共にどこまでも走りたい。 幻で見たどこまでも続く青い草原が脳裏に甦る。 帰せるものなら帰してやりたい……が自分にその術(すべ)はない。 そっと視線を晴明に流す。晴明が微かに首を振った。 唇を引き締めた博雅が手綱を握りなおす。 「お主を故郷へ返すことは出来ずとも、馬を走らすことは出来よう」 「博雅!待て!」 晴明の顔色が変わる。制止を振り切って博雅は北斗に鐙を入れた。 「博雅ッ!」 常にない晴明の切羽つまった表情にすまないと心で詫びながら。博雅は馬を走らせた。 「来い、馬飽。後ろではつまらぬだろう」 駆ける北斗の上で博雅が言う。腰を抱く腕が解かれ、背からひんやりとした何かがしみ透ってくる。 次の瞬間、博雅と馬飽はひとつになった。激しい歓喜が胸に湧き起こる。 ……もっと……もっと速く。 馬と一体になったような初めての感覚に、博雅は酔った。 風に乗ったように馬が軽い。道から外れて低い草の中を走る。薮を軽々と飛び越えた北斗が嬉しそうに嘶いた。 ……名馬を生むと評判の村だった。 馬飽の想いが流れ込む。 ……俺は鞍造りにかけては巧みだった。俺の作った鞍を付けた馬はどこまでも長く早く走ったものだ。 ……そう、弟の育てた馬に俺の鞍を付ければ、敵うものはないと。
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