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結局、男はなにも飲まずにこの店を出て行った。
今更彼女と一緒のテーブルにも、それ以外のテーブルででもコーヒーを飲む気にはなれないのだろう。
まあ、おそらく恋人からの別れを告げられたんだろうから、いつまでもここにはいたくはないだろうな。
隣りの彼女も、用が終わって出て行くのか、テーブルの上のモノをバッグの中にしまい始めている。
---あ、スケッチブックもしまっちゃう。
ゆっくりと時間をかけて、1本ずつの色鉛筆を筆入れにしまっている彼女を、またしても盗み見している俺のポケットの中が震え始めた。
---やべっ!主任からだ!
スマホの画面には榎田主任の名前が。
その名前だけでも威厳を表しているかのように、俺を怯えさせるには十分だ。
スマホを片手にテーブルのわきを通り抜けようとした時に、同じく立ち上がってテーブルから落ちてしまった色鉛筆を取ろうとしていた彼女とぶつかってしまった。
「あ、すみません」
ぶつかった拍子に、俺のスケッチブックと彼女のスケッチブックもテーブルの上から落ちてしまった。
乱雑に差し込まれたままの俺のスケッチブックからは、ぐしゃっとなっている紙が散乱してしまっている。
「どうぞ、拾っておきますから電話に出てください」
床に落ちた紙を拾い集めようとした俺に、ニコッと笑った彼女が俺のスマホを指さしている。
「すみません。お願いします」
ずっと震え続けているスマホは、出るまでは解放されそうもない。
彼女の好意に甘えて、カウンターにいる店員に声をかけてから店の外に出た。
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