老婆

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腰を曲げて,しわだらけの手に杖を持って歩く. 必死に. 前だけを見て. ここはスクランブル交差点. 渡り切れるだろうか. ざわざわと若者たちの騒音が聞こえる. この世のものではないものを見るように,老婆により若者たちの顔は引きつる. モーゼが通るかのように,人の群れは老婆の進行方向に開く. 口々に言葉を発するが,それ自体が騒音のように掻き消され,流れ落ちていく. 手助けをするものはいない.温かい言葉をかける声もない. あるいは,隣ものがとめているのだろうか. あるいは,言葉は騒音と共に消え入っているのだろうか. 私は… 私は,ただ… 夫に遭いたいだけなのだ. 立ち並ぶビル群. その1つから夫は飛び降りた. 88階からだった. 再生は不可能なほど,損傷は激しく,DNAと服装だけが夫だと証明しているだけだった. リュックに入れて持ってきた花. 彼は,生前コスモスが好きだった. 「今年もコスモスが咲きましたよ.まだ迎えにきてくれないのですか.」 語りかけてはみるものの,ただ微かにコスモスが揺れただけだった. 「彼の事は忘れなさい.今ならまだ,身体を留めておくことができる.そうしなさい.」 忠告は散々受けた. 時間を戻すことは出来ないのだが,まだ美しいままでいられた. だけど,もう彼のいない世界が砂のようで,永遠の時間を過ごすには辛すぎたのだ. 色のない世界は見飽きた. 夫は88階から,この世に終わりを告げた. 今年は私も88歳だ. 何となく夫が迎えに来てくれるのではないかと思っていた. 漠然と.88に囚われて,生きてきた.もう十分だ. 子どもがいたら違っていたのだろう. ただ,私たちは準備段階だった.
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