職人の憂い

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その中でも最も人気があるイス職人が、人里離れた深い森の中に住み、日々イスの製作に励んでいた。今や国民的英雄でもある。彼には昔からイスに対するこだわりがあった。長時間、本を読んだり小説を執筆するためにイスに座る日常を過ごしてきたからだ。  彼はかつて作品の媒体が本からデータそのものになった時、生活に窮した小説家だった。そんな苦い思い出から、彼は情報よりも物理的に存在するものを扱うことを決意した。彼は今の仕事に誇りを持ち自信を取り戻した。ふと作業の手を休めて外の景色を眺める。一つの言葉では表せない様々な緑色が目の奥に入り込み、集中して疲れた眼球を癒やした。彼は時折この景色に目を馴染ませる度、満足感と勇壮さに自分の心が満たされているのを感じた。今日も有意義な一日だと思っている。  家には敢えてパソコンもテレビも電話もない生活を送っている。鋭い感性を保つためという彼の芸術家気質が理由らしい。  そのため外部からの連絡や注文は手紙によってのみ伝えられる。今日も幾つかの郵便物が届いた。相変わらず注文の手紙や感謝の手紙が届く。その中に一通のダイレクトメールが混じっていた。こんな森深くにある家に送られてくるのは珍しいことだった。彼は封を切り、中に入っていたパンフレットに目を通して見た。そこには画期的な新しい製品のことが紹介されていた。 (ついに職人並の、いやそれ以上の座り心地と安定感を御提供!ハンドメイド感覚での細かい調整を実現することに成功しました!その名も楽太郎!新素材に座ることであなたの体に合わせたイスが簡単に作成できます。座るだけで人間工学的に最もフィットしたイスへ変化!日々の微少な体の違いにさえその都度対応致します。今回はこの楽太郎を…) これを読み、職人は深い溜め息をついた。 遠くで鳥が高い声音で鳴いているのが聞こえる。天気がものすごく良かった。神秘的な湖のような色をした空の中で綿飴のような白い雲がさらさらと流れている。空気は澄み大地は力を蓄え木々はキラキラと輝いていた。
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