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「何を飲んでいる」
「お国の名産のカルカデですよ、珍しくもない」
カタコトの英語で返したが、顔を見る気もしなかった。
相手は、クーフィーヤと呼ばれる長い布を頭のてっぺんから垂らし、たっぷりと風をはらむ白いトーブをまとった典型的アラブ人のようだ。ただ、装束を見ただけで、どこの国の人間なのかわかるほど、僕も詳しくはない。
日が暮れると、灼熱のエジプトも急に涼しくなってくる。どこにそんなに沢山の人間が潜んでいたかと驚くぐらい、女子供までソロゾロと外へ出てくる。ナンパ男もわいてくる。まあ、このナンパは、日本人旅行客はいいカモだと思っている口だろう。
実際はどうあれ、金銭的に余裕があると見られても、今の格好では無理もなかった。五つ星ホテルのプールサイドの大きなパラソルの下、水着に白いパーカーを羽織っただけのなりで、ルビーいろのハイビスカスのお茶を飲みながら、泳ぎ疲れた身体を休めている――絵に描いたようなバカンス姿なので、いくら日本人が童顔に見えても、子どもとは思われていないだろう。実際は、大手旅行会社の観光ツアーにのっかった、くたびれかけた三十代半ばの、一介のサラリーマンにすぎないのだが。
視線をあわせないでいるのに、男は重ねて声をかけてきた。
「私はマリク・ムフタール。君の名は」
身体の底に響くような良い声だ。発音も、Rなまりの強い現地のものでなく、非常に端正な英語で、会話の訓練にはなりそうだ。名前ぐらいは教えてもいいかと、
「マサユキ・アンドー」
「どういう意味だ」
「安全な道を行けば正しい幸が来る、という意味だ」
「親の願いがわかる良い名だな。私の名前の意味は」
「別に知りたくない」
「そうか」
男は僕からふと目をそらし、暗い水面に視線を投げた。
「マサユキは泳ぎの心得があるのか」
「見ていたならわかるだろう。うまくはない」
学生時代に水泳をやっていた時期がある。基本的な泳法は習得したので、肩幅だけは広くなったが、少しの間だったし、選手として活躍できるほどでもなかった。
まあ、目の前の男よりはマシかもしれないが。
砂の国の人間は泳がない。せっかくプールがあっても、長い服を着たまま、温泉のように水につかっているだけだ。こういう国のホテルのプールで泳ぐのは日本人だけだともきく。水質もどれぐらい良いかもわからないのだから当然だ。
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