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だけど、それはもうどうでも良くなっていた。むしろ今は気持ちが高揚している。
夫の横顔を見て依子は昔を思い出す。
信二とはお見合いで出会った。
最初は仕方なくという感じだったが、幾度も逢瀬を交わすと、彼の優しい人柄が心地よく、依子はすぐに恋に落ちた。
この人と一生を添い遂げたい。
それは共に感じたことだった。籍を入れ、一男を授り、とても幸せな日々を過ごしていた。
だから自宅へ赤札が届いた時、なんて残酷な世の中なのだろうと恨んだ。
戦場になんて行って欲しくない。
何度その言葉を飲み込んだことか。
非国民だと思われれば、容赦無く罰せられる。それは家全体に被害が及んでしまう。
だから信二も何も言わなかった。
出発の日、泣きつく幼い息子の正雄に「父さんはお国のために頑張ってくるよ。お前が母さんを守るんだよ」と言ってから頭を撫でて行ってしまった。
子供と同じように行かないでと泣きつくわけにもいかない依子は、ただ信二が無事に帰って来てくれることだけを祈った。
そして今日、信二は帰って来てくれた。
依子は信二の肩にもたれかかる。
「あなたが帰って来てくれて…本当に良かったです」
見ていた世界が鮮やかに映る。
彼が隣にいるだけで私は幸せだ。
「正雄は外で友達と遊んでるから、帰って来たら驚きますよ。ずっと言ってたんです。父さんが帰ってきたら一緒に竹とんぼを作って、どっちが遠くまで飛ばせるか勝負するんだって」
依子がふふっと笑う。
だけど、信二は何も言わなかった。
不思議に思って顔を覗き込むと、信二は神妙な面持ちをしていた。
「あなた?どうされたの?」
依子の身体に添えていた信二の手に力が入った。
ふいに不安が襲ってきた。
真っ直ぐ自分を見据える夫の目が何かを語ろうとしている。何故かそれを聞きたくないと思った。
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