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信二は身体を向き合わせ、依子の両肩を掴んだ。
「依子、聞いておくれ。これは君の願望が作り出したものだ。僕はもう死んでいる」
「何を言っているの?あなたはここにいるじゃない」
依子が怪訝そうに問うと、信二は右手を依子の頬に添えた。
その手には確かに彼の温もりがある。
「これは君が覚えている僕の体温。今の僕は君の思い出にしか過ぎないんだよ」
「うそ…だってあなたはここにいます!死んでない!」
依子は叫んだ。なぜそんな意地悪を言うのか。ずっと待っていたのに。
取り乱した依子を信二は強く抱きしめた。
恐る恐る夫の背中に触れると、やはり温もりがある。
やっぱり嘘なんだ。
そう思いたくても、胸のどこかで何かが引っかかっていた。渦巻く不安が払いきれない。
「今日は、僕が帰って来た日じゃない。思い出して」
その一言が、依子の記憶を蘇らせた。
今日は彼が帰って来た日じゃない。彼の友人が、戦場で亡くなった彼の髪を持って訪れた日だ。
思い出した瞬間、絶望が依子を蝕んだ。
本当なら今日は信二が帰って来たわけではなかったのだ。
戦場で右腕を失くした夫の友人が、涙を浮かべながら「あなたのご主人はお国の為に立派に務めました!」と震えた声で夫の死を知らせた。依子はそれを聞いた瞬間に膝から崩れ落ち、声を抑えきれず大声で泣き叫んだ。
布に包まれた髪を持たされ、どうしてこんなに小さくなって帰って来たのかと怒りと悲しみが混じり合った。
死んだことの何が立派なのか。なぜ夫が国の為に死ななければならないのか。なぜ夫を生かしてくれなかったのか。
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