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全てが馬鹿らしく思えた。
勝手に戦争をして、勝手に夫を連れて行き、そして負けた。連れていかれた夫はもう二度と戻らない。
貧しくても幸せだったあの日々を返してくれと叫びたかった。
依子は腕から力が抜けた。垂れ下がる腕には感覚がなくなっていくようだった。
「依子、それでも君は正雄を育て上げてくれた。僕がいなくとも君は大丈夫だった」
信二の表情は見えないが、痛いほど抱きしめられているその腕の力から気持ちは伝わってくる。
「いいえ、大丈夫なんかじゃなかった…。あなたを追って死のうと思いました。それでも…正雄がいたから…」
依子は幼い息子の笑顔を自分が守らなければと思い、その為だけに生きた。
父がもう帰らないと言った日、正雄は大泣きしたけれど、数日後に泣きそうな笑顔で「俺が母さんを守るよ。父さんと約束したから」と言ってくれた。
あの時、ならば自分は正雄を何があっても守ろうと決意したのだ。
「ありがとう、正雄を育ててくれて。ありがとう、生きてくれて」
信二がすっと離れ、依子を見つめた。
依子の力のない手を握りしめ、言った。
「依子は生きないと。約束してるんだろ?」
なにを、と聞こうとした時、また夢の中で聞いていたピッピッピ…という音が聞こえて来た。
「聞こえるかい?」
「向こうから聞こえる…」
庭の先、それは自宅を囲んでいた塀の外から聞こえていた。
「一緒に行こう」
手を引かれ、そちらへ向かう。
依子を引くこの手も、依子の思い出の体温なのだと思うと切なくなった。
だけど、信二の言ったことは確かなのだ。
送り出した時と変わらない姿だし、戦場に行って帰ってきたにしては綺麗な服のままだ。
これは依子の知っている夫で、依子がこうであって欲しかったという過去への願望なのだ。
もう二度と触れることのできない彼の手を忘れないでいたい。
胸が締め付けられる。
二人は玄関前まで来た。懐かしい柵の風景の向こう側から、先ほどの規則的な音がより大きくなった。
「僕は向こうには行けない。さぁ、行くんだ」
「行かなくてはいけないのですか?私はここに残りたいです」
依子はこの手を離したくなかった。
信二は依子が我儘を言った時に見せる、困ったような笑顔を向けた。
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