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「ありがとうございました。よく考えたらあのまま帰宅しても、風呂にも入れず、寝るのも一苦労でしたね」
まるで他人事のように淡々と話す桜井くんは、すっかりくつろいでいて帰る気配が微塵も見えない。
――ニワトリ頭が外れたんだから、終電に間に合うように帰ったら?
そんなセリフが、私の口から出そうになっては引っ込んでを繰り返していた。
あと少し。
あと少しだけでいいから、桜井くんと一緒にいたい。
月曜日からは違うフロアになって、滅多に会えなくなってしまうんだから。
とっくにぬるくなったコーヒーをチビチビ飲み続ける桜井くんの横で、私はニワトリ頭に手を伸ばした。
「髪の毛、結構取れちゃったね」
ファスナーを上げ下げしながら、桜井くんの毛を取り除いた。明日、焼き鳥屋に返しに行くそうだから、綺麗にしておかないと。
そんな私を黙って見ていた桜井くんが、何を思ったのか急に胡坐から正座に座り直した。
「文香さんが」
「ねえ、なんで?」
桜井くんの言葉を遮ったのは聞きたくなかったから。もうこれ以上、聞きたくないと言いたくなったのは、まだ酔いが醒めていないからなのか、酔ったせいにしたいからか。
「なんで、私だけ『三橋さん』なの?」
うちの営業二課はアットホームな部署で、四人いる女子社員は下の名前で呼ばれている。
私も先輩と同期からは『双葉ちゃん』、後輩からは『双葉さん』と呼ばれている。
それなのに、桜井くんだけはなぜか名字で呼ぶ。
先輩の文香のことは『文香さん』と呼び、後輩の子は『由宇ちゃん』『恵ちゃん』と呼んでいるのに。
ずっとモヤモヤしていた。
私にだけ打ち解けていないようで。
実際は、一番仕事上で関わることが多いのは私なのに。
困ったように黙り込む桜井くんの指が、彼の太ももの上で動いている。
たぶん、また『282828』。
「『三橋さん』って呼ばれるの、なんかよそよそしくて嫌だった」
恋人との別れ際に相手の悪口をあげつらう女みたいだな、と自分で言ってて思った。
こんな責めるようなことを言いたかったんじゃない。
ただ『双葉さん』って呼んで欲しかっただけ。
だって、もしかしたら秘書課の綺麗な子たちのことも、これから下の名前にちゃん付けして呼ぶのかもしれないから。
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